徳川家康はすり替えられていた

徳川家康はすり替えられていた

実は、秀吉が歴史に登場する正式の記録の時には、すでに29歳になっていました。29歳の年齢とは、信長にとっての非常に高級な将校の一員です。殿様になる手前の秀吉自身が29歳です。しかしながら、29歳からの前の出自はあまり知られていません。

秀吉は幼い頃、日吉丸と呼ばれていました。8歳の時に奉公に出されましたが、12歳で奉公先を飛び出し、実家に帰ることもできずに岡崎の矢作橋で野宿していたのです。本当のところ、矢作川の上です寝ていたのか分からないのです。

顔が猿に似ているから「猿」と呼ばれたのではありません。秀吉が「猿」と言われたのは、「猿」とは山窩の人なのです。山窩とは何かというと説明が少し長くなります。

昔の日本は、3つの民に分かれていました。一般的に、江戸時代のほとんどの人々は「農民だ」と教えられています。実のところそうではありません。

海の人もいました。漁民です。漁民についてあまり教えられていません。学校の日本史では、漁民を教えるでしょうか。ほとんど教えません。

もう一つの民がいます。それは、山窩と言われる山の民です。この人たちは移動していました。移動する民がいます。日本には、山窩がほとんどいなくなってしまいましたがこの様な人たちが集団を組んで移動しました。

山窩の人たちが主に行なっていたのが、よく耳にする焼き畑農業です。その畑が使用されたら次の場所に移動したのです。

農業の民、海の民そして山の民の山窩です。秀吉という人物は、山窩なのです。出身が山窩だったので、平地の人々は山窩の人を山の民だったので「猿」と呼んでいました。

秀吉が猿の顔に似ているからではありません。山窩だからです。秀吉の出身が、尾張の中村となっています。現在の名古屋市、中村区です。ここで秀吉が生まれたのでしょうか。とんでもありません。秀吉はそこで生まれてはいません。29歳まで彼の素性が分かっていないのですから。

秀吉は、岐阜城の下に墨俣城を作ります。長良川のところで、とにかく「一夜城」と呼ばれる城をすぐに作りました。そこで、信長が非常に褒めるわけです。その墨俣城を一夜で作ってしまったのは秀吉が山窩だった証拠です。

秀吉の後ろには、ものすごいグループあるのです。彼らにとって希望の星なのです。そのため、そこにお城を作る時に、長良川の上から彼らはたくさんの材木を流しました。

山窩が秀吉と協力したので、材木がたくさん集まったと考ええれば墨俣城が一夜でできた理由が分かります。歴史はそれを隠しているのです。


徳川家康のすり替え説

徳川家康は、多くの日本人によく知られている将軍です。実は、徳川家康は、すり替わったと言われています。世良田二郎三郎(影武者説に出てくる人)という人です。

徳川家康の影武者説は、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯は通説で考えられているものと異なり、人生のいずれかの段階で別人と入れ替わったという仮説。入れ替わった段階をいつと捉えるかによって説の内容は異なるが、いずれの説も史料批判の誤りが多いため、フィクションとしてはともかく、アカデミズムにおいては否定的見解が強い。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年11月7日 (月) 12:03での最新版を取得。

家康の名前は松平元信と言っています。岡崎の城主です。松平元信がその後の家康になります。学校でもその様に教えています。

徳川 家康は、室町時代後期から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名。江戸幕府初代征夷大将軍。安祥松平家5代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖。織田信長との織徳同盟を基軸に勢力を拡大。豊臣秀吉の死後に引き起こした石田三成との関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣氏に対抗しうる地位を確立。

ちなみに徳川家康とは短縮名であり、『徳川次郎三郎源朝臣家康』が正式名である。これを区分すると、「徳川」が名字、「次郎三郎」が通称、「源」が姓(かばね)、「朝臣」が家格を表す姓、「家康」が名前となる。

家系は三河国(現在の愛知県東半部)の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎、後に蔵人佐。諱は今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と名乗るが、今川氏から独立した際に家康と名乗る。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2023年1月15日 (日) 09:48での最新版を取得。

歴史も講談もそうです。変なことが岡崎の城主であった松平元康がもし徳川家康ならば、その後1回として自分の故郷である岡崎に帰っていません。お墓は日光と久能山です。一切岡崎に帰っていないのです。

もっと不思議なことは彼の一番初めの奥さんであった築山殿についてです。築山殿と家康の間に生まれた信康が死にます。その人たちのお墓がずっとどこにあったかというと、江戸時代約300年間浜名湖畔に朽ち果てるままにあったのです。

本当に松平元康が、徳川家康であるならば悲劇の中で自分の奥さんを殺さなければならないのでしょうか。自分の初めての長男を殺さなければならなかったのでしょうか。もしそうであるならば、家康が天下を取ったのですから彼らのお墓は最上級にして霊を鎮魂し祀るはずです。どうして約300年間、浜名湖の湖畔にほったらかしにされていたのでしょうか。


歴史は勝った者たちによって粉飾される

私たちが教えられている歴史を信じることができるでしょうか。歴史とは何か。歴史とは、勝った者たちの歴史です。勝てば官軍なのですから。英語では、”history”と書きます。”his”彼の”story”物語、彼の物語なのです。彼とは現在の勝者であり覇者なのです。

勝った者たちの歴史ですから自分たちのいいように脚色します。負けた者たちに対しては徹底的に叩き潰します。これが歴史です。だから今の日本を支配している王朝は自分達が正しいとします。

勝った者たちにとって、敵は全て悪です。例えば江戸時代からで明治にかけて、当時のことを考えてみます。

農民は貧しかった。五公五民(収穫の半分を年貢(ねんぐ)としておさめ、残りの半分を農民のものとすること。江戸時代の租税徴収)で大変だった。「天明の大飢饉があって大変だった」と学校で教えます。

しかしながら、ずっと調べてみると、江戸自体の農民は、非常に豊かでした。それほど惨めな生活はしていません。どうして間違ったことが歴史になるのでしょうか。

農民に「酷いことをした」ということを明治以後、国定教科書で教えたのです。それは、薩摩と長州の政府だからです。自分たちは正しく、以前は間違っていることを定着させるために、農民たちのみじめさを宣伝したのです。実際江戸時代の農民たちの生活を調べてみると、そんな貧しい生活をしていませんでした。


重野安繹

内閣修史局編集官兼東京帝大東京大学の教授、重野 安繹(しげの やすつぐ)氏が記した下記の内容について考察してみます。この方が記載した内容は、
東照公は幕府の烈祖300年の基業を開く。世にその事跡を伝ふる者粉飾避諱ない能はず。(避諱(ひき)とは、君主や目上の者の諱の使用を忌避する慣習である)
仮に豊臣氏の子孫歴世絶たざりしならば則ちその太閤微賤((びせん)地位・身分が低くいやしいことの時を伝ふる。未だ必ずしも今日の史上の如くならざりしならん。
これは、もし豊臣家が滅亡しないでずっと続いていれば太公が「飯を食われずに、ほったらかされた」とか「矢作川の橋の上で寝転がったとか」そのような「微賤(びせん)の歴史をどうして明らかにするだろうか」と述べているのです。

そこが、秀吉なき後の徳川の世によって歴史が編纂されたのですから、秀吉は醜く扱われ「猿」になるのです。これを重野氏が述べているのです。

流離間関変故百出、而も功業を意料の外に成す。古今の大豪傑皆かくの如し。何ぞ独り東照公を怪しまんや。

どの様なことかと言うと、豊臣秀吉にしてもそうですが、東照公の家康も同様なのです。徳川家康が松平元信または元康そのものだろうかということなのです。

重野氏が著したこの本の中では、「すり替わった」ということが書かれているのです。本当は世良田二郎三郎元信が、家康になりすましたのではないかという疑問です。世良田二郎三郎が岡崎の殿様である松平元信(家康)を殺したのです。その代わり自分が元信(家康)になりすましました。

だから自分と全く関係のない築山殿を暗殺し、家康の長男である信康も切腹することに対して懇願して止めようとしなかったのです。さらに、若い頃からの忠臣だった石川数正がいます。
現在の大河ドラマ「どうする家康」では、石川数正を松重豊が演じています。若き家康の最も頼りとし寄り添った家臣です。その忠臣が秀吉側に出奔してしまいました。
どうしてなのでしょうか。石川数正は石川数正は秀吉の長男信康の後見人でした。信長に疑いをかけられたとはいえ切腹を命じた家康の非情さにガッカリしたのでしょうか。そうではなく、本物の家康ではないことが分かったのでしょう。そこで、偽物の主君を見限ったとしか考えられないのです。
そういうことを明治の半ばの学者である重野氏が調べて、「多くの豪傑たちにもすり替えがある」ということを本に著したのです。
まだまだ都市伝説の段階でありアカデミズムには全く相手にされない内容ですが、家康が本物ではなくすり替わったということが史実だということなのです。
東照公、つまり家康ばかりではなく、秀吉にしても何にしても人間の歴史とは、「いつも滅んだ人の歴史は惨めで、勝った側は必ず粉飾される」と述べているのです。
古今の歴史とは、秀吉や家康について述べられていましたが、「古今の大豪傑皆がかくの如し何ぞ独り東照公を怪しまんや」古今の今とは、明治であり明治維新の歴史が粉飾されたと述べていたのです。

URL<https://www.youtube.com/watch?v=rFGgo_hmQAU>アクセス日:2023年1月15日

まとめ

歴史は勝った者によって粉飾され勝った者によって都合の良いことが書かれている。

負けたものは非常に惨めな者の扱いにされてしまう。


紹介欄

キャラ絵で学ぶ! 徳川家康図鑑

戦国時代ミステリー: 史実に隠された「もうひとつのドラマ」 (王様文庫) 

 

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聖典をかける少女

地球は乗っ取られている。それも、私たちが、神だと信じている存在によって。「聖典をかける少女」によりますと、創世記がどのように、誰によって書かれたか説明されています。「プレアデス+かく語りき」がモチーフになっているようですが、地球は、30万年前に聖書に登場する創造神たちによって乗っ取られていることが理解できます。

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