この記事の概要
JFKの暗殺の真相は甥のロバート・ケネディー・ジュニアによれば「JFKは、ベトナムから完全撤退し、ベトナム戦争はしたくなかった」のです。ディープステートである軍産複合体の言いなりにはなりませんでした。JFKがベトナムから完全撤退し、ベトナム戦争には介入しないと決めたその1か月後に暗殺事件が起きました。
ロバート・ケネディー・ジュニア
来年のアメリカ大統領選挙に向けて、民主党、現職のバイデン大統領の対抗馬として現れたのが、ロバート・ケネディ・ジュニアです。この方は、叔父がJFK、ケネディ大統領でした。今様々なアメリカのメディアに出て非常に目立った存在です。
ロバート・ケネディ・ジュニアは、パンデミックのワクチンに関して、鋭い論評をしています。反グローバリストという位置づけの人です。
彼は、ある番組で出演され、叔父さんにあたるケネディの暗殺について 衝撃的な内容を話しました。ケネディの暗殺というのは、 YouTube で言えない話題の一つです。普通に述べるのは問題ありませんが、違う言い方をすると非常に危険です。
ロバート・ケネディ・ジュニアが違う角度から、ケネディの暗殺についての話をしました。甥っ子にあたるのですから、本当のことを知っているのです。
ロバート・ケネディ・ジュニアの父は、ロバート・ケネディで、ニックネームがRFKです。そのお兄さんのケネディ大統領が、JFKでした。そのため、彼は、RFK・ジュニア と言われます。2024年、民主党、大統領候補の有力候補です。
叔父ジョン・F・ケンディー
この方の最大の特徴は叔父が JFK 、ジョン・F・ケネディ大統領でした。父は、JFKの弟である ロバート・F・ケネディだったという大変な血筋なわけです。
叔父のJFKが大統領に就任したのが、1961年です。その時ロバート・ケネディ・ジュニアは、6歳でした。ロバート・ケネディすなわち、RFKは、兄のケネディ政権では、司法長官でした。彼は、弁護士でしたが、司法長官に抜擢され兄が暗殺された後、上院議員になります。
上院議員になって、その後、民主党の大統領候補ということで大統領を目指します。有力候補になりますが、大統領選挙の真っ最中に暗殺されてしまいました。カリフォルニア・ロサンゼルスのホテルにおいて。それが1968年6月6日だったのです。
そのケネディ家の最後の希望の星とも言われるロバート・ケネディ・ジュニアが、大統領選挙を民主党側から出馬しようとしています。
これは、6月6日にイーロン・マスクのツイッタースペースにゲストとして登場しています。イーロンと話していました。これが 260万回も再生されていたのです。ツイッタースペースのツイート自体は3300万回もされています。大変な注目です。この注目度合いと人気は、同じ民主党のバイデンの比ではありません。
ロバート・ケネディ・ジュニアが、ジョー・ローガンのアメリカ、ポッドキャストの番組に出ました。アメリカで最も人気があり、最も影響力があるポッドキャストです。いろんな人がこの番組で、衝撃の発言をしています。ここにロバート・ケネディ・ジュニアが現れて、叔父の話をしたことが衝撃的でした。
軍産複合体に気をつけろ
特に暗殺事件についての内容の叔父であるJFKは、「CIAが戦争をやろうとしていることにずいぶん早い段階で気づいていた」という話をしました。
この爆弾証言の内容のポイントとは、叔父のジョン・F・ケネディは早くからCIAと情報機関の目的は新しい戦争の絶え間ないパイプラインを 作ることでした。
アメリカの情報機関であるCIAが、次々と新しい戦争をやり続ける絶え間ない状態をパイプライン(パイプを連続的に接合したシステム)という表現をしていました。
CIAは、このハイプラインを作ることを早い段階で気づいていたのは、JFKの前の大統領、アイゼンハワーでした。アイゼンハワー大統領の退任演説はアメリカ史上最も重要な演説です。
この中で軍産複合体に対する警告をしていたのです。この軍産複合体すなわちディープステイトです。前任者のアイゼンハワーは共和党でした。大統領を辞めるときに、「軍産複合体に気をつけなければならない」と述べるのです。
軍産複合体との対決
その後任になったJFKは、まさに軍産複合体と対決することになります。ロバート・ケネディ・ジュニアは、「私の叔父JFKが、大統領に就任してからわずか2カ月後、軍と情報機関CIAが彼のもとにやって来て、キューバを侵略しなければならない」と言った。
突然「キューバ侵略しましょう」と大統領に言ってきたのです。
JFKは、「キューバには行かない」と拒否したのです。それに対して軍とCIAは、「カストロを攻撃するために訓練した キューバ人が大勢います。大統領!」
それに対してJFKは、「アメリカがそんなことをするはずがない」と。JFKは「私はカストロのやっていることは好きではないが、だからといって他の国がどんな政府を持つかを決めるのはアメリカの仕事ではない」と言ったのです。
JFKというのは、他国に対する介入には、非介入主義でした。これは、「アメリカファースト」だったのです。トランプ氏と一緒です。
それに対して、軍とCIAは、「彼らが上陸したら、訓練されたキューバ兵たちが、キューバに上陸したら、すぐにキューバで革命が起きてカストロを打倒しますよ。大統領」と。それに対してJFKは「いや 米軍を使うわけにはいかない」と。
「軍とCIAは、海岸へもうすでに行っています。全滅しているから、すぐにでも米軍の軍隊を派遣して、侵略する必要があります」としつこくキューバ侵略をJFKにディープステートたちは、迫って来ました。JFKは、彼らとの会議から退席すると彼らが自分に嘘をつき騙そうとしていることに気づきました。
JFKはそのことに怒って、「CIAを1000個の破片に粉々にして私の大統領就任後、1000日間の間に空中にばらまきたい」様なことを述べたのす。
そこで「こんな発言は表に出たことがあるのでしょうか。初めて聞いた内容です」と問われると、これに対して、ロバート・ケネディ・ジュニアが述べます。
叔父のJFKは、「軍とCIAと戦争状態にあった」と言っています。ディープステイトと戦っていたのです。この軍とCIAは次に、「キューバを侵略しましょう」と提案しましたが、JFKが乗ってこなかったので、次にベトナム戦争のことを提案します。
JFKを「ベトナム戦争に参戦させよう」と説得しに来るのです。「ベトナムには、25万人の戦闘部隊が必要だ」と要求します。JFKはこれを拒否します。しかしながら、JFKの周りの誰もがベトナム戦争を望んでいました。
これらの話は、ジョー・ローガンのポッドキャストの番組に出たときに、ロバート・ケネディ・ジュニアが話した内容です。
ベトナム戦争の通説とは違う
JFKは、アメリカの正規軍ではなく、代わりの軍事顧問団を派遣しようと決めるのです。ところが、JFKが認めた軍事顧問なのに、戦うことを許されていて、実際には軍隊であり、彼らの多くは交戦規則に違反していました。
その後、1963年10月、JFKは 米軍の中のグリーンベレーの何人かが、ベトナムで殺されたというのを聞きました。すると、側近がやって来て「75人が死んだ」と答えたのです。
JFKは軍事顧問なのに「それは多すぎるだろう」と驚いたです。JFKは、その日のうちにベトナムから全ての軍事顧問団(中身は実際、軍隊)をベトナムから全て撤退させるという国家安全保障令に署名しました。つまり、ベトナムからの完全撤退をここで大統領として指示しています。
もし 本当にそうだったとしたら、その後起きたベトナム戦争はなかったはずです。少なくとも、アメリカがベトナム戦争の泥沼に入ったのはなかったはずです。
ロバート・ケネディ・ジュニアは、叔父のJFKは「ベトナムから完全撤退を指示した。その1ヶ月後、彼は殺された」と話をしました。
ここまでがロバート・ケネディ・ジュニアの話です。この話は、今まで世界中が聞いていたベトナム戦争の通説とは違います。今までの通説は、JFKは1961年1月20日に大統領に就任したちょうどこの就任直後、ベトナム戦争にアメリカが軍事介入すべきかどうかまだしていません。
すべきかどうかというのが議論になっていた国防総省 ペンタゴンは、「ベトナムに米軍が軍事介入すべきです」とJFKに対して提言します。それに対してJFKは、「正規軍の派遣はソ連や中国との対立を刺激する」として拒否します。正規軍は送るわけにはいかないので、1961年5月に軍事顧問団を派遣することを決めます。中身は米軍の特殊作戦部隊の600人でした。
通説では、JFKは米軍の派遣を積極的な軍事支援を開始し拡大することを押し進めました。最初は600人で始まり、どんどん増やして行きます。JFKは米軍の派遣を押し進める方だったのです。
それに対して撤退を求める世論が出て来ます。世論は派兵には反対していことが通説です。
ロバート・ケネディ・ジュニアの話と違います。当時、北ベトナムと南ベトナムが対立して北ベトナムは、ソ連と中国が支援していました。南ベトナムは、アメリカが支援していました。ところが、南ベトナムの政権が反米的になってしまったのです。
アメリカ政府によるコントロールが 効かなくなり、それに困ったJFKの政権が1963年10月31日、南ベトナム政権に揺さぶりをかける目的で軍事顧問団の増強方針をします。当時の通説ではJFKは増強する方針だったので、軍事顧問団の増強方針から一転して軍事顧問団引き上げを発表したと歴史上言われています。
でも、これはあくまでもアメリカの言うことを聞かなくなった南ベトナム政権に対して、揺さぶりをかけるためであって本気ではなかったのです。
本気で軍事顧問団を全部引き上げることではなかったという話でした。ところが これは1963年の10月31日であり、翌月11月22日は、ケネディが暗殺された日です。
トンキン湾事件の真相
副大統領だったジョンソンが大統領に昇格します。ジョンソン政権ができて、その翌年1964年の8月にベトナムで有名なトンキン湾事件が起きます。
北ベトナムの海軍がトンキン湾にあったアメリカの海軍の船に魚雷攻撃をして来ました。これに対して アメリカは報復することで、アメリカの軍事介入が正式に決まったのです。
議会も激怒してジョンソン大統領に、全権を委任することになりました。これは、第二次世界大戦の日米戦争とよく似ています。
その後、随分経った後に、ニューヨーク・タイムズが、スクープで「このトンキン湾事件というのは、アメリカ政府が作った捏造で 嘘だった」ことが分かりました。(ペンタゴンペーパーズ)
ジョンソン政権の後、政権がニクソンに移ります。1969年、ニクソン政権が、既に泥沼化していたベトナム戦争の完全撤退ということを決めます。ニクソン政権の大統領顧問だったのがヘンリー・キッシンジャーです。
キッシンジャーは、「ベトナム戦争の完全撤退を決めて実際に行ったのは、あくまでもニクソン政権であり、一部にケネディ政権が、それをやろうとしたとかという説があるけど、それは全然違う!嘘だ!」と 完全否定しています。
JFKはベトナムから完全撤退に署名した
ジョー・ローガンの番組に出たロバート・ケネディ・ジュニアは、「JFKはベトナムから完全撤退するという国家安全保障令に署名した」と述べています。
それではその記録が残っているのでしょうか。この番組ではっきり言っています。ということは、ロバート・ケネディ・ジュニアが述べていることが正しいのであれば、叔父にあたるJFKは、「ベトナムから完全撤退し、ベトナム戦争はしたくなかった」ということになります。
ここが通説とは違います。「戦争をしたくなかった、しかし ディープ・ステイトがベトナム戦争をしたかった!だから JFKは邪魔だった !」ということになるのです。
その1か月後に、JFKがベトナムから完全撤退するともうベトナム戦争には介入しないと決めたその1か月後に、暗殺事件が起きたのです。この話を聞いたジョー・ローガンは、「あなたが言ったように、あなたの叔父さんに起きたことを考えたら、もし、あなたが大統領になったらあなたは大丈夫ですか」と問うのです。
「私は気をつけなきゃいけない。私に起きる危険性は分かっています。それを恐れているわけじゃないけど、しかし 私はバカじゃないので用心しなきゃいけないというのが 分かっています」と。
参考文献:ユーチューブ、2023.6.17【米国】民主党大統領候補ロバート・ケネディJr.が語った叔父ジョンFケネディのあの事件【及川幸久−BREAKING−】※多言語字幕ありMulti-verbal subtitles※
URL<https://www.youtube.com/watch?v=ShqNG8sBc40>アクセス日:2023年7月22日
まとめ
JFKは、軍産複合体すなわちディープステートの戦いだった。
戦争を仕掛ける者と金融を支配する者へ反発する者は、暗殺されるか未遂に終わる。