この記事の概要
縄文から日本の文化を守り続けた古部族山窩は社会に溶け込まず山中で静かに暮らしていました。山窩は、縄文人のような争いを好まない純粋な心の持ち主が多かったのです。森という完全自動化された自然に同化して生きていたので、ストレスがない人生を送り、争いが生じない生活をしていました。
山窩
社会に溶け込まず山中で静かに暮らしていた集団が、日本に存在していました。この集団は1950年ごろまで確認されていました。明治期には20万人、戦後には1万人ほど居たと推測されています。
その集団とは、一つの民族でも氏族でもない山窩です。山窩とは戸籍を持たず定住せずに本州の山中を転々として暮らしていた人々のことを指します。
山窩が住んでいた地域は、北は青森、南は鹿児島にまで至っていたと言われています。一方では、東北地方以北には至らなかったとも言われています。これは、気候が寒冷化し、寒い地域では住むことが困難になったことも考えられます。
家族単位で生活
山では洞窟や遺跡に住み、移動の際にはユサバリと呼ばれるテントを張って家族単位で生活していました。(ユサバリとは、昔のサンカ集団の名称。ユサバリは「揺布張」を意味し、今日では「天幕張」を意味する。ユサバリは「ユ」とも略される。)
またユサバリで暮らすことを瀬振(セブリ)と言いました。また、「瀬降(セブ)り」とは農村近くの川原に張る天幕のことを指します。かつて関東以西の地方に、一般社会の人々と隔絶して、山野をさすらいながら生活を送る山の民がいました。彼らは瀬降りを張り、箕作りなどを行っていたのです。
戸籍がない
彼らの生活様式は、慣習、信仰、伝承に至るまで定住する人々とは異なっていました。戸籍制度は、飛鳥時代の645年に「大化の改新」で制度化され、670年に「庚午年籍(こうごねんじゃく)」と呼ばれる制度が作られました。
日本初の戸籍制度は、明治4年4月4日に戸籍法が制定され、翌明治5年2月1日に施行された「明治5年式戸籍」です。この時期には「戸籍を持たない」「山に逃げ隠れている」ということで、犯罪者のような扱いをされてしまいました。
そのため役所や警察によって「山窩」いう蔑称(べっしょう:さげすんで言う呼び名)が付けられました。世間からは蔑まれていた山窩は後世に記録を残すことも嫌っていたため、山窩に関する資料や文献も乏しく謎に包まれた存在となっています。
彼らの法律と治める者
彼らはどのような集団だったのでしょうか。なぜひっそりと人里離れた山中で暮らすことになったのでしょうか。山窩は農耕せず、永住せず政治権力に従いませんでした。生活の秩序を守る方法として、「ヤエガキ」「ハタムラ」という掟で守っていたようです。(ヤエガキ・ハタムラは、サンカの掟=法律を意味する)
家族集団や個人のやり方で誰にも支配されず、誰の邪魔だてや妨害も受けず生活していました。彼らは、自主的に掟を破ることなく自由に生きていたのです。山窩は、このような自由な生き方を「メンメンシノギ」という言葉で表現しました。
しかしながら、各地のセブリを取り仕切る存在はいたようです。文献によると乱裁道宗(アヤタチミチムネ:落合莞爾サンカ論で登場する人物)と呼ばれる大親分(オオヤゾウ)を頂点に、クズキリ、クスコ、ムレコと呼ばれる親分(ヤゾウ)がいたとのことです。
世俗からは切り離された独自の社会の中で暮らしていた山窩ですが、時には近隣の村を訪れ、ちょっとした商取引を行って生計を立てていたと言われています。
山窩は自分達の事はあまり話しません。しかしながら、海の幸や川の幸、竹で作った箕やザルなどの手工芸品を農家へ持参し、穀物や野菜、時にはお金と交換していたようです。山窩は勤勉であり、働き者でした。地方によっては彼らはミナオシ(箕直し)、ミツクリ(箕作)、カワラコジキとも呼ばれていました。
山窩が自称していた名前とは、テンバモン(転場者)、オグ(漁具から)、ポン(スッポン猟りからなどなど。ちなみに自分達の事は関東ではナデシ、関西ではショケンシ(世間師)などでした。
山窩の言葉
山窩はどのような言葉を話していたのでしょうか。文献などによりますと、彼らは特殊な隠語を用いて話していたようです。それは山窩言葉と呼ばれています。
山窩言葉が西日本と東日本で違いが見られるそうですが、中には共通する言葉もあり山窩の漂泊範囲が広かったことが考えられます。山窩の生活感において、仲間同士でしか通じない言葉が生まれた可能性もあります。山窩は日本の古語を使い続けていたことも考えられます。
仲間への連絡として特殊な符号の書かれた炙り出しを地面に埋めたりもしていたとも言われています。彼らが使っていた文字は山窩文字と呼ばれています。 その山窩文字は、古代日本で漢字以前に使われていたと言われている神代文字の一種ではないかと言われています。その文字は、豊国文字とよく似ているのです。
豊国文字は分後の国守大友義能直が編纂した古史古伝「ウエツフミ」に見られる文字です。山窩文字は後世の研究者が、豊国文字を元にして創作したものではないかとも言われているのですが、不思議な点が二つあります。
- 一つ目は「ウエツフミ」の伝承と山窩の伝承が似ているという点。
二つ目は山の民の一部に大友能直に文字と歴史を盗まれたという伝承が残っているという点。
山窩が使っていた古代文字を大友能直が「ウエツフミ」として編纂したとも言われています。
山窩が現れた年代
山窩のルーツについては諸説ありますが、縄文時代から現代まで続く日本人の末裔、すなわち縄文人の原型の人々ではないかという説があります。
弥生時代以降、日本列島には様々な渡来人や文化が入ってくるようになりました。やがて大和朝廷が成立しました。そのため、山窩は平地を追われて山に篭るようになったりした人々もいました。中には渡来人と平和的に融合して現日本人になったとも考えられています。
また出雲族との関係性も指摘されています。山窩の伝承には出雲国津神を祖としているというものがあるとのことです。大国主の国譲り伝説は、大和朝廷に侵略された出雲のことを表しているのではないかとも言われていますが、大和朝廷への服従を拒んだ出雲族の末裔とされているのです。
山窩は、「見事に断ち切るもの」という意味を持つ「ウメガイ」という両刃の短刀、「テンジン」という煮炊きに使う自在鉤を用いていました。
このような金属製の道具を使っていたということからも製鉄が盛んだった中国地方にルーツがあると考察されています。出雲であれば銅剣でした。そのため鉄剣を保持していた日高見国の人々に敵わず国を譲ったと考えれば、山窩の人々は、どちらかというと関東側の人々ではないのでしょうか。
広島県にかつて存在したと言われている三篠町にも、山窩の最大級のコロニーがあったと言われており、竹細工の技法が優れていたようですが、おそらく、鉄製の道具や武器を携えて全国に散らばったとも思えます。例えば多々良という地名が群馬にあり、そこでは製鉄をしていたと考えられます。
有力武士と繋がる山窩
古語を話していたという意味でも山窩は新しい言葉を覚えることなく原始日本人が使っていた言葉をそのまま使い続けていたと思われます。山窩が難民であった説には、古代難民説の他に、動乱の続いた室町時代の遊芸人、職能集団にルーツを求める中世難民説や江戸期の飢饉で山へ逃れた人々の末裔とする近世難民説などもあります。
天保の大飢饉で最も過酷だった中国地方に、山窩の記述が多く登場します。この飢饉によって山へ食べ物を探しに行って難民になったようです。
平安時代には傀儡(くづつ)を使った芸能を生業とした傀儡子と呼ばれる集団も存在しており、山窩とのつながりが考えられます。
山窩には笛などの楽器を作るフキタカや、獅子舞、傀儡などを行うエラビという職業もあったようです。忍者や山伏も山窩と関係があると考えられています。有名な人物ででは、源義経、豊臣秀吉、徳川家康などにも山窩の血が流れていたとも言われています。
山窩は山から下りて定住することを「トケコミ」と呼んだようですが 、時代の変化に伴って平地へ溶け込んでいた者もいたことは考えられます。
山窩の人々は、獣や草花に関する知識が豊富でした。病気になると彼らに薬を作ってもらっていたと昔の人々は語っていました。山窩は、とてもおとなしく悪さもしなかったので、村の人々は彼らを信用していました。
などなど、南北朝動乱時代には戦いに敗れて山に隠れ住んでいた阿多隼人(古代の鹿児島県に居住した人々)の人々に対して、山窩の人々が親切に箕作りを教えたと伝えられています。
山窩は、縄文人のような争いを好まない純粋な心の持ち主が多かったに違いありません。なぜならば、森の言う自然に同化して生きており、完全自動化された人生でストレスがないので争いが生まれないからです。
特徴としては男が凛々しい顔をしていて眼光が鋭く、それでいて穏やかで物静か、手先が器用で一途で律儀であるとも言われているようです。 山窩は戦後姿を消しました。昭和27年に施行された住民登録方の影響もあったのでしょう。
彼らは、自然と共存しながら質素な生活を送っています。自由で誇り高く、本当の意味での豊かな生き方をしていたのです。現代人にはあらゆる便利さがありますが、若者の自殺者が最も多いのです。本当の意味で幸福とは言えません。
自然から離れてしまった現代人は、見失ってしまっている大切なことに気がついていないのかもしれません。
UR L<https://www.youtube.com/watch?v=WBfPwWYL5hM>アクセス日:2024年1月27日
まとめ
自然に同化して生きていた人々は病気を知らず、社会組織の競争とも無縁だった。日本は恵まれた自然によって食べ物が与えられ、食べ物を奪い合うことがなく安定した生活を送ることができていた。