天海は明智光秀の甥の明智左馬之助だった

天海は明智光秀の甥の明智左馬之助だった

 この記事の概要

天海は明智光秀の甥の明智左馬之助だったのです。天海が生まれた年と左馬之助が生まれた年が同じです。天海の墓がなぜ、大津坂本の慈眼堂にあるのでしょうか。そこは明智左馬之助が関わった地名です。左馬之助は坂本城に戻り自刃した事になっていますが諸説あり不明です。徳川家康とは深い関わりがあったようなのです。


明智光秀は天海だったのか

家康の側近としての参謀として活躍した南光坊天海は、明智光秀ではないかと言う説が広く流布されています。これは大正以降ある先生がそのことを書いてから、長い間言われています。

天海は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧、大僧正。尊号(そんごう:尊んで言う呼び名。特に、天皇・太上天皇・皇后などの称号)は南光坊、院号(いんごう:戒名のなかで、最上の尊称が院号または院殿号)は智楽院、諡号(しごう:貴人や高徳の人に、死後おくる名前。おくりな)は慈眼大師。 徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

ウキペディア:最終更新 2021年2月13日 (土) 11:33

明智光秀は天海になったのでしょうか。

インターネット上にも、それに関する情報が非常にたくさん載っています。ここで明智光秀は南光坊天海なのかをはっきりさせたいと思います。

日光東照宮の陽明門には、有名な座っている像があります。膝のあたりを見てみますと、明智の家紋である桔梗に見えます。しかし、実は、織田の木瓜紋です。織田信長の家紋です。明智の家紋は桔梗です。

明智の桔梗紋は、花びらの先がとんがっていますが、織田信長の木瓜紋は丸みを帯びています。日光東照宮の陽明門に座っている像は明智なのではないかと言われていますが、明らかに紋が違います。


日光の明智平は天海が命名

修学旅行でお馴染みの「いろは坂」には、途中に「明智平」があります。なぜここに明智平があるのでしょうか。これも一つの議論になっています。ここを名付けたのは天海です。なぜ日光に「明智平」と名付けたのでしょうか。

実は明智というのは「開け地」(空地)という意味があります。山肌を掘削した場所に空き地があったのです。その様なところを全て明智(開け地)と言ったそうです。「明とは智」とは「めいち」(悟ること)の意味があります。

天海は和尚でした。その様な意味で名付けたのかもしれません。いずれにしろ、明智光秀の明智をとったかどうかは分かりません。意味深な偶然ではありますが。


光秀の石灯籠

延暦寺松禅院に「光秀」銘の石灯篭がありますが、それは明智光秀を指しているのでしょうか。

比叡山延暦寺の松禅院に光秀の名が入った石灯篭があるというのです。延暦寺や高野山には、たくさん灯篭があります。名のある武将たちが、自分たちにもご利益が来る様にということで、石灯篭をみんなが寄進したのです。

その中に光秀の名がついた石灯篭があります。ここまでは「生前に入れたのでは」と誰もが思います。どうもそうではありません。松禅院にある寄進された灯篭の日付は慶長20年(1615)2月17日です。

この日付は本能寺の変が終わってから、22年も経過しています。なぜ石灯篭に光秀の名前が書かれているのか。生きているのではないのかと思わせられます。実は光秀という名前はたくさんいるのだそうです。

明智光秀だけではないのです。そうかもしれませんが断定はできません。結論としては確固とした確証がありせん。

これらのことから光秀は死んではいなくて生きていたと言われる様になってきました。

江戸時代に入りますと、徳川三代将軍家光の乳母を公募します。そこで採用されたのが春日局です。京都において、京都所司代であった板倉勝重が将軍様の御子息の乳母を公募しますと、応募してきた中に春日局がいました。お福と言われていました。このお福は採用されます。

東京文京区の春日通の小石川の手前にお福の像が立てられています。春日局は、斎藤利三の娘です。斎藤利三は、本能寺の変の時に一番先に突っ込んだ武将でした。

そのため彼は捕まって晒し首になります。その娘は、いられなくなって逃げる事になりました。長い間、稲葉氏のところで匿ってもらう事になったのです。

成人してからは、京都市で公家の三条家に仕え、出仕し、ものすごい教養を身につけました。「これなら大丈夫だ」ということで、将軍の息子の乳母の公募に立候補していきました。そして採用されました。

ところが後に、寛永寺の天海と非常に懇意であった事が分かりました。お福は、天海と会ったときに「お久しぶりでございます」と言った事が記録に残っています。

これは間違いなく以前に会っていたという事になります。斎藤利三は明智光秀の重臣でした。側近中の側近です。だから、お福が子供の頃から光秀と会っていたことには疑いがありません。


天海の生い立ち

天海には天海の歴史が刻まれた記録が残っていますが、前半生が不明なのです。天海は、元々は陸奥国会津高田出身です。「東叡山開山慈眼大師縁起」にはその様に記録されています。

東叡山とは寛永寺のところです。晩年に彼がつくったのです。それは彼の生涯を晩年になって書いたものです。古いものではありません。天文5年生まれ(1536年)です。

108歳で死んだ年は分かっています。そこから引き算すれば当然生まれた年が出てくるのです。家康は1542年です。それよりも天海は、6年前に生まれています。蘆名氏という武将の生まれではないかと言われています。

明智光秀の生い立ちもはっきりとしています。彼の場合は、1526年生まれです。10年も違います。物の見方からすれば10年ぐらいの違いはありうるのではないかとも言われています。この10年はやはり決定的に違います。

天海は、天正16年(1588年)比叡山延暦寺や園城寺(おんじょうじ)などで修行の後、川越無量寿寺北院(後に喜多院)の僧になります。この頃から関東にやってきた様です。家康と接したのではないのでしょうか。年齢で言うとちょうど52歳です。

この頃に、関東の喜多院にやってきました。喜多院には天海の銅像が立っています。喜多院には、春日局や家光の遺品などが移されてあるのです。

天海は徳川家康とは非常に深い関係を持ちました。1582年が、本能寺の変でしたから、1588年は6年後になりますがその場所にいた事になります。

慶長12年(1607年)比叡山探題を命じられ家康に出仕(しゅっし:民間から出て官職につくこと)します。江戸幕府が慶長8年(1603年)に開き、慶長12年は2代目将軍秀忠に引き継いでいます。

その時に天海は、家康から、比叡山探題をもう一度直して欲しいと言う役目を命じられて、正式に家康に出仕してきました。そのことが記録に書かれています。

慶長18年(1613)、日光山の貫主(かんす:かしらに立つ人。特に、天台宗の最高の僧職、天台座主(ざす)の異称)に任ぜられます。このあと数年後に家康は死んでしまいます。その時に彼は「家康を日光に亡骸を移して欲しい」と述べたのです。そこで東照宮ができました。

東照宮ができて家光の時代、寛永元年(1624)将軍家の菩提寺、上野に寛永寺を創設しました。初代の家康と家康のお墓は日光にあります。

本当のお墓は、久能山にあると言われています。天海の命令で久能山から、日光に移したと言われていますが、久能山の方では、「移したという記録はありますが、実際は移していない」とのことです。そのように宮司さんはおっしゃられています。

天海は、寛永寺に小さな京都をつくりました。東叡山寛永寺、東の比叡山という意味です。上野に行くとちょうど京都のようなに舞台を持った清水寺と同じお寺があります。

上野には東照宮もあります。不忍池は琵琶湖に見立てています。景観もとてもいいのです。不忍池の真ん中に行くと竹生島があります。全国の業者の人が来てお参りをします。周りは食べ物屋さんがいっぱいです。

これは天海がつくりました。これだけのことを天海が行いました。寛永20年(1643年)に亡くなります。108歳でした。

当時でも今でも108歳とはものすごい長寿です。銅像を見る限り、屈強そうな顔と体つきです。遡って見てみますと、家康の関わりから、天海と光秀のラインが、出てきた感があります。

家康と天海との関係において、「家康と光秀が結託していたのではないか」、「家康が光秀を助けたのではないか」このようなことはあったはずです。家康と明智光秀とその側近たちに繋がりがありました。

本能寺の変の後の山崎の合戦において秀吉は勝利しました。光秀はその時に、逃れて命を落とすのが歴史の定説です。山崎の戦いで、敗走する明智光秀を竹槍で刺したとされ、光秀は命を落とした事になっています。


明智左馬之助

ところが明智光秀には甥がいます。

甥にあたる側近がいました。彼は本能寺の変の後、安土の城を攻めています。ところがその最中に、光秀が殺されてしまうものですから、安土から坂本に引き上げようとします。琵琶湖の反対側の方です。

そこへ行こうとするときに、瀬田の唐橋があります。あの橋を燃やして壊して敵方の武将が、通せん坊をしてしまいました。その時に渡って行った武将がいました。彼は天海と同年の明智の一族です。1536年生まれの武将です。

現代でいう大変なイケメンです。彼は、明智左馬之助です。弥平次とも言います。大河ドラマでは、ずっと明智光秀のそばにいました。光秀の妻と子供たちの世話もしていました。左馬之助は天海と同じ年に生まれていたのです。左馬之助は馬に乗って湖を渡りました。琵琶湖の湖水渡としての伝説になっています。

明智左馬之助は秀光と言います。明智左馬之助秀満、通称「弥平次」です。

左馬之助は、山崎の合戦で光秀が敗れた後、坂本城に戻り自刃した事になっていますが諸説あり不明です。どの資料を見ても死に方が違います。実は死んだかどうかは不明なのです。

左馬之助は、自分が持っていた文化財、明智家にまつわるものは、敵が攻めてくる前に、全部渡したと言われています。「大事にしておいてくれ」と文化財の人とも言われています。

命懸けで戻って行った坂本城の背後には比叡山があります。坂本は石垣の町です。ちょっと行くと比叡山の上り口です。その比叡山に明智秀満は身を隠したのではないか。それから何年か経って僧となって降りてきました。それが「天海なのではないか」と言われています。天海イコール比叡山なのです。

最近2020年に、ある古文書が発見されました。石山寺が所持しています。「明智弥平次が、信長公の安土城を奪おうと・・・、近江のところで瀬田の橋まで・・やってきたところ・・そこで戦が起きた」ということが書いてあります。

「瀬田の橋は壊されて通されなかったので、弥平次は舟で、戦になった」と書いてあります。最後は馬ではなく舟で行ったのではないかとも考えられています。山岡景隆が明智左馬之助と戦いました。


天海とは明智左馬之助だった

事実、琵琶湖を舟で渡って、坂本まで戻っていることは、はっきりとしています。そこで死んだかどうかは色々な資料で書き方が違っています。そのため不明なのです。おそらく死んだのではなく、比叡山に身を隠したに違いありません。

もしも天海が明智云々だったら、天海は光秀ではなく、同年の弥平次秀満だったはずです。

天海のお墓は3箇所あります。

上野の寛永寺、喜多院、滋賀県坂本にあります。

天海のお墓がなぜ坂本になければならないのでしょうか。天海の比叡山の僧としての名前が慈眼大師と言います。

慈眼大師堂も全国3箇所あります。滋賀県大津坂本にある慈眼堂、上野には、一般には通称の「両大師」で知られている東叡山寛永寺開山堂 慈恵大師と慈眼大師を祀る両大師堂です。そして川越喜多院 慈眼堂です。

滋賀県坂本の慈眼堂の中に入りますと大きな徳川家康の墓があります。さらに天皇陛下の墓まであるのです。天海が生前、接した非常に親密に関わったお墓があるのです。

滋賀県大津の坂本は安土の石垣の町です。穴太衆(あのうしゅう)と言って、石積み集団の街なのです。街全体が石垣だらけです。石垣の小道をゆっくりと歩けます。

そこにお寺が出てきます。坂本明智の城、慈眼堂、天海のお墓、そして家康の墓です。坂本には東照宮もあります。


山崎の後の明智光秀は

では明智光秀はどうなったのでしょうか。死んではいないはずです。本能寺の変をもっと深掘りしてみる必要があります。織田信長も明智光秀も生きていたのです。


天海=光秀の真相!明智光秀は生きていた?戦国史最大の謀反 本能寺の変を起こした光秀の謎に迫る…家康の側近・天海と明智の関係「早わかり歴

<https://www.youtube.com/watch?v=9V7Qfl-wWSU>アクセス日:2021年4月13日


紹介欄

明智光秀は天海上人だった

復讐鬼 明智光秀 中 天下人となった秀吉は老いて狂った。明智光秀の復讐の魔手が迫る。

 

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