この記事の要約
織田信長のデスマスクの信憑性は傍にいた弥助の存在により、かなり高いものとされています。しかしながら、新説として信長の胴体が発見されなかったことと、デスマスクがあまりにも綺麗なため、信長は生きてローマへ渡った仮説も考えられるのです。
1. 織田信長のデスマスク
最近また織田信長のドラマが話題になっていますが、名古屋の郊外には私設の博物館を経営している織田信長公の子孫がいらっしゃいます。その方は、信長のデスマスクを所有されているのです。
それは、絵で見るような正に信長の顔の形です。ご存知のように信長といえば、1582年に本能寺の変で明智光秀に攻められて最期、切腹して、森蘭丸が介錯して火を放って本能寺は焼け落ちました。
2. 信長の遺体と首
当然ながらその後に明智光秀が来て、首を探すのです。切腹した後に介錯し首はどこかにあるはずです。ところがいくら探してもありませんでした。
本能寺の傍では、バテレンが一連の騒動を、「火事になったな、最期は焼けはったんだよ全部」と見ていました。
信長の遺体も灰燼に着したのです。遺体が分からなくなるくらいに燃え上がってしまったのです。これが表向きの歴史です。
信長の遺体や首は本来は無いことになっています。見つかってないというのが定説です。それなのに信長の子孫である西山さんは、西山博物館に所蔵されているデスマスクがとても綺麗に保管されています。
デスマスクというからには、死んだという事です。首をはねた顔から型を取らなければデスマスクは作れないですね。生きていたらライフマスクになります。胴体がつながっていれば、介錯していなかったことになります。
そのようなことを考えると、いろいろ謎が出てきます。そもそもアカデミズム的、一般的には、デスマスクがあるわけがないと歴史学者は言います。この所蔵されているデスマスクは本物ではないという扱いをされているのです。
信長の子孫の西山さんに言わせると、「そうではないと、ちゃんと由来がある」とのことです。ここで鍵となる事があります。
3. 弥助
それは、弥助です。この弥助は黒人です。バテレンが彼を連れてきました。身長がとても高く肌が黒いので信長は彼を見て大変驚きました。
この人は肌に何かを塗っているのではないのかと信長は思いました。そこで、身体中を洗わせたのですが、黒い色が落ちませんでした。それで本当に肌の色だと理解したそうです。
信長は彼をいたく気に入って、傍に置いたとのことです。ボディーガードとして、彼に役を与えました。当時、アフリカ系の人は日本に来ていなく、大変珍しかったのです。
江戸時代には、長崎ではポルトガル、オランダの人々が来ていました。ご存知のように、黒人は奴隷として不幸な歴史がありましたので、当時そのような形で連れて来られました。
弥助は、とても身長が高かったのです。2メートルあったかどうかわかりませんが、本能寺の変が起きたときも、傍にいました。信長の傍に常に居たのは森蘭丸(乱丸)でした。そして弥助もいました。そのため、最期の切腹の場面に傍にいたのは、蘭丸と弥助だったに違いないのです。
信長は弥助を相当気に入っていたようなのです。伝承によると、信長は切腹して介錯したのは森蘭丸でその後、森蘭丸(乱丸)も切腹してその介錯をしたのは弥助であったのです。
その後、信長公の首を抱えて本能寺を脱出しました。弥助はここで死んではいないのです。
この後、本能寺を脱出して、別のところで一回捕まりました。「お前は信長のところにいただろう」ということで。
少なくとも生きて本能寺の現場から逃げたことは事実で、その時に信長の首を持って逃げた可能性は残されていました。
4. 何かあったら岐阜へ
信長の首が持ち去られていたとしたら持ち去ったのは弥助しか考えられないのです。しかも信長は「岐阜、何かあったら岐阜へ」と言っていました。
だから「何かあったら」と言ったら信長自信が命に関わる事であり、その首を持って「岐阜へ行け」との命令があったのではないのでしょうか。
弥助は忠実に、言われた通り岐阜に行き崇福寺(そうふくじ)に持ち込んだのです。
もし「何かあったら、こうしろ」と言われていたために、デスマスクが作られることになりました。当時デスマスクを作るにあたって粘土、特殊な粘土、五斗薪粘土(ゴトマキネンド:志野土に比べやや黄色を帯びる粘土)、陶器を作る粘土なのでしょうか、それを使って、綺麗に型を取り、デスマスクを作ったと伝えられています。
デスマスク文化が日本には、そもそもないはずです。そうです。ところが、首を持ち去ったのはバテレンの弥助です。
つまり信長は舶来ものが大好きで、金平糖を食べたり、地球儀を見て地球はこんなに丸いのかと、舶来の物に対して大変興味を示していたのです。そのため信長が「何かあったら、デスマスク作れ」と言っていたのは否定できません。
その理由で、残されたのがこのディスマスクだと言われています。ちなみに今であれば岐阜にすぐに行けますが当時は、どのくらいかかったのでしょうか。
本能寺は京都です。京都から山を超えて琵琶湖、そこの街道を進んでいけば岐阜に行き着くのです。安土城もそうですがルートはたくさんあったのですが、1日では辿り着きませんが、数日で着いたのは可能でした。
5. 斬られた首の保存方法
斬られた首はどれくらいで朽ちてくるかわかりませんが、デスマスクがとても綺麗に象られています。ただ単に生のままで新聞紙に包るんでいったかというとそうでもないに違いありません。
その当時、氷とか氷室とかあったのでしょうか。氷で冷やすのではなく、昔の首は酢飯で腐るのを防いだのです。塩と麹と蒸した米で酢を作りました。酢は防腐剤です。発酵させて、形を整えるのです。
となると、弥助は、持ち去る途中で、信長に関わっている家に行き、酢飯を調達したと考えられます。
信長の首は、岐阜の崇福寺の中に祀られていると今も伝えられています。
6. 木内鶴彦氏が臨死体験で見た信長
木内鶴彦氏が臨死体験で見た信長は、生きていたことになります。本能寺の変は、信長と明智光秀によって仕組まれたものだったのです。
信長は、生きてローマに渡りカトリックの枢機卿になりました(ジョルダーノ・ブルーノGiordano Brunoになった。この文字にOda Nobunagaの文字が隠されている)光秀が、信長の歴史を偽造したと言われています。
そう考えると、明智光秀も生きていて南光坊天海になっていたことも理解できますが、木内氏は、この説を否定しています。
なぜなら、光秀も共にローマに渡ったからです。となると、南光坊天海は誰なのでしょうか。天海の生年ははっきりしていないが、100歳以上の長命であったと言われています。
7. 信長と光秀が計画した歴史
信長と光秀の策略は次の通りでした。
- 信長は、狭い日本という国を出て海の向こうのバチカンに行きローマ法王になって世界覇権を狙った。信長の天下とは世界制覇だった。(信長は、枢機卿までになった。次は法王だったが亡くなってしまった)
- 思い切って自分たちを日本の歴史から葬った。
- その裏切り者の役を明智光秀が受け入れた。
- 信長は幼少の頃一緒に育った家康の才能を見抜いていたので信頼のおける徳川家康に後継者として指名した。
- 秀吉は非常に怪しい存在で、信長と光秀の計画を壊そうとしていた。
- 本能寺の変の時に、家康を陥れようとしたのは、信長ではなく、秀吉だった。
- 宣教師のフロイスは、秀吉をよく見ていなかった。
- 信長は、明智光秀に家康の参謀としての役割を託したかのように、天海に光秀と思わせる印を残した。
- 天海は秀吉の死後、家康に天下を引き込んだ。日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋が象られている。(しかしながらこの説には、問題があります。桔梗紋に似た織田家の木瓜紋(もっこうもん)や装飾用に多用された唐花紋(からはなもん)が使用されているとのことです)
- 信長の妹お市の娘江姫が信長の血を受け継ぎ(ミトコンドリア遺伝子的に)、信長の天下を引き継がせる事をした。
木内氏が臨死体験で見た通り、デスマスクを見たとき毛穴が開いてたというのですから、実は、生きた状態でライフマスクを作ったのではないでしょうか。その理由で、博物館には、あまりにも綺麗なデスマスクが保管されているのです。
参考文献:YouTube:織田信長のデスマスク MUTube(ムー チューブ) 2019年6月号 #6
URL<https://www.youtube.com/watch?v=bDBsMHNsXoQ&t=706s>アクセス日:2019年10月31日
まとめ
信長のデスマスクが綺麗な形で保存されている
弥助が信長の首を持って逃げた
デスマスクはバテレン文化と弥助との関係
実は信長と光秀は共に生きていてローマに渡った
Amazonの紹介欄(商品リンク)
明智光秀は生きていた! 謎につつまれた生涯とその最期 (ベストセレクト)
2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」完全読本 (NIKKO MOOK)
信長は生きていた―GOD KAZUKIが伝える“本当の歴史”