秦氏の前に渡来したイスラエルの十支族

秦氏の前に渡来したイスラエルの十支族

  • 2023年12月5日
  • 2023年12月10日
  • 歴史

この記事の概要

秦氏の前に渡来したイスラエルの十支族が大和民族として同化したと考えられます。十支族は太陽が昇る東に憧れがありました。エジプトで太陽崇拝の影響を受けたと推察できます。神武天皇が九州日向から東進して大和政権を確立したようですが、その前に関東の高天原である日高見王国を確立し鹿島から鹿児島に渡り天相ん降臨を果たしたと考える方が妥当のようです。


古代イスラエル人と日本人のつながり

古代イスラエル人は、古代日本人と混血しているのです。イスラエルの失われた十支族は、シルク ロード地域を中心に世界中に散らされ、その失われた十支族は日本に渡来したので混血しているのです。古代イスラエル人の血が日本人の40パーセントに入っています。

日本の伝統文化とDNAを調べていくとあることに気が付きます。人類は日本列島では誕生していません。日本人は、他の地域から移動してきた民と考えられます。


縄文人・弥生人の渡来

日本へ渡ってきた人々の大きな波は3回あったと言われています。日本人の主な人々は縄文人です。彼らが先ず日本に移動してきました。

縄文人は、主に狩猟と採集を行い生活をしていました。これが縄文時代です。彼らはロシア南東部に住むブリヤート人と共通のDNAを有していると言われています。

ブリヤート人(ブリヤート語: Буряад、ロシア語: Буряты)は、ロシア連邦やモンゴル国、中華人民共和国に住むモンゴル系民族です。ブリヤート人は、ロシア連邦(旧ソ連邦)の東シベリアのバイカル湖東岸に集住しています。ブリヤート語はモンゴル語に非常に近く、宗教もチベット仏教(ラマ教)を共有しているため、ブリヤート人は歴史的・精神的にモンゴルと強いつながりがあります。

縄文人が生活していた痕跡が世界最古であることを証明する出土品が見つかっているために、縄文文化は世界最初の文明で、日本は文明の中心であったと考える人もいます。

竹内文書では、日本から世界中に文明が広がって行ったと考えられています。一方では、縄文文化は文明と言えるほどのものがないとも言われています。縄文土器などは優れたものではありましたが、巨石で建造した巨大建造物などはなく縦穴式住居などがあるだけで、高度な文明があったわけではないと主張する人もいます。

縄文時代は原始的な文化があったと言われていますが、大型掘立柱建物(ほったてばしら)に関しては、直径1メートル前後のクリの木を使った柱の根元の部分も出土しています。

次に弥生人が移動して来ました。彼らは稲作を広め、弥時代と呼ばれる時代をつくったのです。稲作は、食料生産に革命をもたらしたと言われるほどの画期的なものでした。彼らは中国の南部から移住して来ました。


ヤマト民族の渡来

3回目の渡来人はヤマト民族です。彼らは神道をもたらしたとも言われています。初代の神武天皇は日本に大和王権を確立しました。

紀元節では大和王権の設立は紀元前660年です。西暦3世紀頃の古代の埴輪には、ペヨトと呼ばれる耳の前の鬢(びん)すなわちみずらがあります。これを伸ばすのは、イスラエル人の髪型をしたヤマト民族です。

3番目に日本に渡来したヤマト民族は、縄文人や弥生人とは異なっています。彼らは渡来した古代イスラエル人でした。

西暦3世紀に中国で書かれた魏志倭人伝などによれば、縄文人も弥生人も顔と体に皆、刺青をしていたとの記録が残っています。西日本の和人である弥生人は、男も女も顔にも体にも刺青をしていたと記されています。

魏志倭人伝の信憑性には疑わしいものがあります。それは歴史書ではなく魏の陳寿という人が、海南島あたりの一つの島を予想して書いたフィクションの物語とも言われているからです。

西暦8世紀に書かれた古事記によれば、ヤマト民族は刺青をしませんでした。ヤマト民族の人が、「顔に刺青のある男性を見て驚いた」という記述があります。


古代イスラエル的神道の伝来

神道は、渡来したヤマト民族によって伝えられたものです。神道の人々は自分の体を傷をつけず、清潔に保たなければならないと信じていました。その理由で古代から刺青をしたことがありません。だから日本人は刺青を嫌うのでしょう。公共のお風呂場では、刺青をした人を入浴禁止にしてしまうほどです。

日本の天皇も刺青をしません。同様に古代イスラエル人も聖書で禁じられていたので刺青をしませんでした。大和民族の遠い起源は中東であると考えられます。聖書ではレビ記 19章28節に、「自分の身に刺青の印を付けてはならない」と記載されています。

古代イスラエル人は、中近東から東へ進んで旅をし、最終的に日本に到着したと思われます。彼らが辿ったアフガニスタン、パキスタン、インド、カシミール、ミャンマー、ウズベキスタン、キルギスタン、中国四川省、中国の開封などの地域には今もイスラエルの失われた十支族の子孫が定住しているとのことです。


太陽崇拝を目指して日本へ

彼らが辿った国々にはシルクロードがありました。その東の端は日本だったのです。聖書のエゼキエル書8章16節には、古代イスラエル人は日出る方角である東方へ憧れていました。彼らは太陽崇拝をしていたことが記されているのです。

この異教の風習は後に、南ユダ王国では根絶されましたが、北イスラエル王国の失れた十支族では、それを実践し続けたことが考えられます。その理由で、イスラエルの失われた十支族の子孫であるヤマト民族が、日出る国としての日本を目指し、到達したと考えるのはごく自然なことに思えてきます。


ヤマトの起源

大和(ヤマト)の言葉は、日本人にとって、とても重要です。当時世界最高を誇った戦艦にも「大和」が名付けられています。しかし日本人の多くは、ヤマトの意味も起源も知りません。

ユダヤ人研究者のヨセフ・アイデルバーグは(ウクライナ南部のオデッサに生まれたユダヤ人。イスラエルの軍人、神道の神官)は、ヤマトはヘブライ語のヤー・ウモトに由来し、ヤーウェの民あるいは ヤーの民、神の民の意味だと述べました。

古代イスラエル人は、神の御名ヤーウェを「ヤー」と短縮して挨拶を交わしていました。このことは、ユダヤ人が神の御名の発音を禁止する前でした。しかしながら、このことについては明確な聖文がありません。


イスラエルの神道と日本の神道

ヤマト民族が伝えたとされる神道は、神の道を意味します。日本古来の神道と考えた場合は自然と神の道とも言えます。古代イスラエルの教えも神の道ヤーウェの道と呼ばれていました。古代イスラエル神道は、色々な面で日本神道に似ています。

日本神道は、古代イスラエルが持ち込んだ聖書の教えが日本の神道に溶け込んだと言っても良いかもしれません。現代の日本の神道には多くの混じりけのあるものが含まれています。それらを取り払ってみるとイスラエルの神の教義や儀式が見えてきます。

日本の神道は多神教と思い込まれています。しかしながら、籠神社(このじんじゃ)の海部穀定宮司の著書では、8世紀以前の神道は「一神教だった」と述べられています。

この神は大元神(おおもとしん:中世の神道で宇宙の統一神とされた神)、全ての起源の神または天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ:日本神話に登場する神で、天地開闢(かいびゃく:天地のはじめ)に関連)、すなわち天の真ん中の主なる神と呼ばれていました。

著名な神道学者の渡辺重石丸(わたなべ いかりまろ)氏も著書の中で、「この神は聖書の神と同じである」と述べています。(聖書の神:天地万物の創造者、宇宙の支配者、人類の救済者で、唯一絶対の神。神は人間を計画と目的をもって造り、命を与え、生かし、導いている。また、神は霊的な存在である)


秦氏一族の渡来

失われたイスラエルの十支族の日本への渡来後のもう1つの重要な移民集団は、秦氏一族です。縄文人、弥生人、ヤマト人に次いで第4の主要な渡来集団です。日本書紀によれば、秦氏一族は、ヤマト民族渡来から何百年も後になって、日本に移住して来たとのことです。

この秦氏一族は、現代で言うところの中国新疆ウイグル自治区の中央アジア寄りにあった弓の月と書く弓月の地から来たと言われています。

この出来事は、西暦3世紀から4 世紀ぐらいのことでした。そこから退去し渡来して来たのです。彼らの風習や文化を研究すると、彼らは古代イスラエル人でした。ところが、東方キリスト教に改宗した人々だったのです。(東方キリスト教:ロシア正教など東ヨーロッパを中心に広がる東方正教会や、主に中東で広まった東方諸教会などを包括するもの)

弓月など中央アジア付近は西暦2世紀くらいまでにはすでにキリスト教化されていました。中央アジアでは、スキタイ文化の影響によりキリスト教が爆発的に広がり、4世紀までに住民の約1割がキリスト教徒になったと言われています。弓月の地にはヤマトと呼ばれるところもあります。これは秦氏の人々がヤーの民、ヤーウェの民、神の民という意味でつけた名前なのです。

(スキタイ文化は、イラン系民族のスキタイ人が前6世紀から前3世紀にかけて、カルパチア山脈とドン川の中間の草原地帯に建設した遊牧国家で形成された文化)

ペテロの殉教の後、その意志を継いだのはイエス・キリストの弟ヤコブでした。ヤコブを始めとした原始キリスト教徒が、中国方面に伝道してキリスト教を広めたと考えられます。


中東にも見出されるヤマト

ヤマトの名前はさらに中近東にもあります。アブラハムとヤコブがかつて一時住んでいたハラン現代のトルコ南東部にあります。(古代アッシリヤ帝国の王シャルマネセル3世(B.C.858~824年)の碑文には「私は治世11年目に、ニネベを発ってユーフラテス河を越え・・・アラムの100の町々を征服し、討ち滅ぼし、破壊し、焼き払った。・・・私は、ヤマト(Yamat)の人々の町々に下っていった。)

ハランの辺りは古代ヘブル人や アラム人が住んでいた場所でヤマトと呼ばれていました。アッシリア王、シャルマネル3世が碑文に私はヤマトの人々の町々下っていった」と記しています。古代ヘブル人及び同じ神を信じる兄弟民族であるアラム人は、自分たちの存在証明として自分たちをヤマトの民の人々と呼んでいたことが推測できます。


高天原の由来はトガーマのハラ

ここで述べられているハランの地はトルコのトガラマ地方に位置しています。

日本神話における大和民族は天孫民族です。彼らは、高天原と呼ばれる天界から来たと言われています。その高天原の由来は、タカマのハラという意味であり、トルコのトガーマのハラになり高天原(たかまがはら、タカマのハラ)と言葉が変わって行ったと推測できます。実際の天界とは、山あり、谷あり、川ありで地上界と同じなのです。

天界とは、実は地上の別の場所からヤマトの民が来たことを示していることなのです。その理由として、キリスト教牧師であり、神道学者でもある小谷部 全一郎(おやべ ぜんいちろう)氏は、タカマのハラ、高天原はかつてアブラハムとヤコブが住んでいたトガーマ(TOGARMAH)のハラン(Harran)だったと解しました。そこは、北イスラエル王国の十支族が追放された地域にも近いところです。

そこが日本人の大和民族の遠い故郷であることが予想できます。


神武天皇

記紀によりますと、日本の初代天皇は神武天皇です。彼は九州日向から東進し、橿原宮で即位するまでの間に、宇陀を舞台に戦いを繰り広げ、吉野を経て菟田下県(うだのしもつあがた)の穿邑(うかちむら)から宇陀に入り勢力下におさめ、ここを拠点に奈良盆地に向けて攻め込み大和を平定、橿原宮にて即位したのでした。紀元前660年に現在の奈良の地に大和王権をつくりました。

現在の天皇も大和民族であり神武天皇の子孫であり、神道の信仰体系に従い血脈を絶やさず繋いでいるのです。日本の天皇は王と祭祀を兼ね備えた役割を持っています。古代イスラエルの祭祀王(ユダヤ教の教祖であるモーセ)と同じです。また日本の皇室の紋章は16菊花紋です。

日本人では、この菊花門を菊の御紋と呼んでいます。16枚の花びらを持つ花の形をしています。ところが、元の形は菊とは限らなかったようです。別の花、例えば向日葵から得たものかもしれません。この16家紋は、古代の中東の王が使っていたものでした。エルサレムのヘロデの門にも16家紋があります。


天皇の系図

古事記や日本書紀には、天皇の系図を見ることができます。マーヴィン・トケイヤー(アメリカのラビ、教育家。滞日生活が長く、日本通として知られる)の著書、日本ユダヤ封印の古代使(徳間書店)によれば、天皇の系図は、聖書に記されている北イスラエル王国の王族だったエフライム族の系図にそっくりです。

聖書に隠された日本・ユダヤ封印の古代史―失われた10部族の謎

固有有名詞は違っていますが、骨格と流れが非常によく似ています。これは明らかに日本の天皇が、イスラエルのエフライム族であることを示しているに違いありません。

(エフライム族は、イスラエルの12支族の1つで、ヨセフ族から分かれた2部族(マナセ族、エフライム族)でエフライムは重要な位置を占め、ユニコーンがエフライム族とマナセ族が属するヨセフ族の紋章)、神社には秦氏の出とされるユダ族の紋章獅子とヨセフ族の紋章ユニコーンがあります。)

エフライム以外にも他の失われた10支族も共にやって来たはずです。初代の神武天皇には、別の長い正式な名前があります。カム・ヤマト・イハレ・ビコ・スメラ・ミコトです。

神武天皇の別な名称は日本語として何か意味がある言葉ではありません。しかし、ヨセフ・アイデルバーグは、これをヘブル語のクム・ヤーウモト・イヴリ・ベコ・シュメロン・マークート と解しました。その意味はサマリアの王、神のヘブル民族の高尚な創設者と言うことです。


日本人の兄キルギス人

中央アジアのキルギスの主要民族はマセ族の出身です。マナセ族とは、失われた十支族のヨセフの長男で弟はエフライムです。この兄弟は失われた十支族に数えられています。その代わりヨセフとレビが抜けています。キルギス人には、イスラエル人出身であることを示す多くの伝統があります。

キルギス人の伝承には、キルギス人と日本人はかつて兄弟でした。古代に2人の兄弟がいました。その1人は肉を好み、西の山へ行き、キルギス人になりました。

もう一方は、魚が好きで東の海へ行き日本人になりました。これはマナス叙事詩と言って日本で言え ば古事記のような書物に記されているものです。

『マナス』は、中央アジアのキルギス民族に伝わる英雄叙事詩です。キルギス人が1000年以上前から語り継いできた長大な物語で、口承文学として伝わってきました。『マナス』は、ギネス世界記録で世界で一番長い詩として認定されています。

驚くことに日本にも同様な話があるのです。それは有名な山幸彦と海幸彦の話です。マナスとは十支族のマナセのことであることが理解出来ます。マナス叙事詩によりますと、「多くの旅団は契丹(満州)を離れ日本人になった。その島はシムンと名付けられた」

これは古代日本人が日本列島を八島(八洲)ヤ・シマと呼んだことと関係があるようです。シムンとは日本語で島を意味する島のことと言われています。

ヤ・シマは、ヤーウェの島を意味したと思われるのです。キルギス人がマセ族であるならば、マナセの兄弟とはエフライムであり、日本に来たヤマト民族である天皇と神道系の豪族らはエフライム族といくつかの失われた十支族だったに違いありません。


URL<https://www.youtube.com/watch?v=JcK4VHFCZRQ>アクセス日:2023年12月1日


まとめ

日本に来ると日本に同化して、自然を愛し、優しくて誰をも受け入れ気のいい優しく真面目で信用できる人間になる。

四季があり、穏やかな風土で水や食料が豊かで争いがなくなる。

ところが争いや戦い、裏切り、殺し合いが起こる。これは優秀な血統でもあり争う激しい血でもあるユダヤの血を受け入れたからだ。

イスラエルの十二支族の性格を見ると、兄弟を妬む、兄弟殺し、侵略地での皆殺しなどの歴史がある。なぜ学校で、会社で、社会でいじめがあるのか。優しいはずの日本人が。朝鮮、中国、ユダヤといった渡来して来た人々と交わった血がそうさせているのだろう。

おそらく、エフライム(ユニコーン)やナフタリ(鹿)といった支族は、美しく、優雅で優しいのだろう。平和や安定を求める。いざという時には、ものすごい力を発揮する。一方秦氏はユダ(獅子)であり、王権を引き継ぐ気位が高い支族だ。優秀だが非常に激しいものを持っている。

例えば、秦氏系は織田信長、豊臣秀吉である。その期間は争いが多く短期間である。高天原系は徳川家康である。長期政権が続き平和で安定している。

明治以降の現代は、争の時代の秦氏の政権なのだ。


紹介欄

天孫皇統になりすましたユダヤ十支族 「天皇渡来人説」を全面否定する

日本とユダヤの古代史&世界史 – 縄文・神話から続く日本建国の真実

天皇家とユダヤ 失われた古代史とアルマゲドン

 

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