日本人は戦争と虐殺を一緒くたにしている

日本人は戦争と虐殺を一緒くたにしている

  • 2023年12月13日
  • 2024年8月9日
  • 歴史

この記事の概要

日本人は戦争と虐殺を一緒くたにしているのです。戦争とは武装した兵士と兵士が戦うことです。道路で縄飛びしてる女の子に対して、完全武装した兵士が銃でその少女を撃ち殺したら、戦争は両方とも武装してる同士でなければならないのです。降参して白旗を上げたら、戦争を終えて武装解除し捕虜になり命は助けてもらえるのです。ところが大空襲。原爆投下は無辜の民を殺す虐殺なのです。


大東亜戦争は侵略ではなかった

日本は、大東亜戦争でアジアの国々を侵略したのは全く間違っています。学校の先生方は、アメリカの言い分に沿って、白昼堂々学校で嘘を子供たちに教えているのです。

当時、日本がアメリカ、イギリス、オランダ、中国へ宣戦布告して、大東亜戦争を始めた時には、アジアという地域はありませんでした。

現在の地図を見ては理解できません。当時の地図を見れば、台湾の南のフィリピンはアメリカの植民地でした。その南にあるインドネシアは、オランダ領でした。そこにいる軍隊は、オランダ軍です。

その西にあるインドシナ半島ではベトナム、ラオス、カンボジアですが、そこはフランス領でした。シンガポール、マレーシア、タイは中間地帯で半独立していましたが、ビルマ、現在のミャンマー、インドはイギリス領でした。ハワイは、1900年にアメリカが戦艦2隻で分捕ったアメリカ領です。

日本海軍はアメリカ領のハワイに進軍しました。陸軍はイギリス領の香港とマレー半島を下ってシンガポールを攻めました。しばらく経ってフィリピンに上陸して、陸軍がフィリピンを取りました。

いずれも戦ったのはアメリカ軍とフランス軍でした。フランス軍はその時は、ナチスにやられており、軍隊はいなかったので通過しただけでした。やがてインドネシアに進軍します。

そこで戦ったのがオランダ軍です。特に海軍系はアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアの連合軍と日本の海軍は戦いました。その当時、飛行機は空軍にはあまりなく、海軍の航空隊が戦いました。ラバウルに基地を置いて戦ったのです。

もちろんイギリスとはビルマでも戦いました。要するに日本軍が戦ったのは白人なのです。白人に寝返った中国はどうしても戦わざるを得ないのです。


白人による植民地からの解放

これを日本の学校が「日本軍がアジアに侵略した」と教えていますが、アジアというのはその当時ありませんでした。戦争が終わった1945年です。それから10年後の1955年にバンドンで第1回有色人種の会合が行われました。(1955年4月にインドネシアのジャワ島、バンドンで開催された「アジア・アフリカ会議」は、歴史上初めて有色人種のみによる国際会議でした。この会議は「バンドン会議」や「AA会議」とも呼ばれます)

この時に日本の代表はもしかしたら、アジアの人たちが日本を非難するのではないかと思って恐る恐る会場に入った時でした。万雷の拍手を受けたのです。

なぜならば、日本がアジアから白人を追い出したからです。戦争は終盤、1944年頃から劣勢な情勢でしたが、フィリピンのアメリカ軍、フランス 軍は、インドシナから追い出されていました。

フランスは、ビエンフーの戦いもありました。(ディエンビエンフーの戦いは、1954年3月から5月にかけてフランス領インドシナ北西部のディエンビエンフーで起こった戦闘です。この戦いは第一次インドシナ戦争中最大の戦闘で、ベトナム人民軍とフランス軍合わせて約1万人の戦死者を出しました)

オランダ軍は、インドネシア軍とは戦えなくて負けました。イギリスも仕方なく順次、インドを手放す ことになりました。

日本軍が頑張ったからアジアは全部アジアの国のものになったのです。これを言わないで逆に、日本の中学校・高等学校の先生が、「この前の戦争は日本がアジアに侵略した」と教えるのは大変な間違いなのです。


硫黄島の戦いで戦争から虐殺に

1945年になり、アメリカ軍がフィリピンを回復し、太平洋の島々を奪って行きました。そして硫黄島に行くのです。硫黄島は日本から遠い海底火山島です。

そこで日本軍は戦いました。その当時の日本軍はもう制空権はない、制海権もありません。はだか同然で硫黄島に立て篭もりました。

その理由でアメリカ軍は、簡単に硫黄島を奪い取ることができると思いました。ところが、日本軍が非常に強かったのです。結局、日本軍は全滅しましたが、アメリカ軍と日本軍の死傷者は、ほぼ同じように見えました。(硫黄島の戦い:1945年2月19日 – 1945年3月26日)

もちろん日本軍の方が多かったのですが、戦った状態がそうだったのです。アメリカ軍は非常に恐怖し、それから、沖縄戦は、戦争と虐殺が組み合わさった戦いになりました。アメリカ軍はある意味では戦争しましたが、もう1つは、やってはいけない虐殺をしたのです。アメリカ軍はここで方針を転換しました。

「戦争はもうダメだ。できない」と。アメリカ軍が国際条約に基づいた戦いではない方針に決めたのは1945年の3 月です。終戦は1945年の8月ですから5ヶ月前にアメリカ軍は、日本と戦争するのを止めてしまいました。

ルールに沿った戦いを止めました。どうして止めたのでしょうか。アメリカ軍の兵士が日本軍と戦ってどんどん死ぬからです。日本軍は強かったのです。


汚いソ連軍を蹴散らす

8月18日はもう戦争が終わった後でしたが、ソ連が汚いことに、千島列島に進軍して来ました。そこには日本の守備隊がいました。日本はポツダム宣言を受託したので、順次撤退していこうとしていたら、ソ連軍が攻めて来たのです。

もう戦争が 終わっているのに、連合軍がポツダム宣言を出して日本はポツダム宣言は受託していました。それにもかかわらず、ソ連軍は、攻めて来たのです。

負けたはずの日本軍がソ連軍をやっつけて追い返してしました。要するに日本軍はそれだけ強かったのです。だからアメリカ軍は日本に戦争するのを止めたのです。


戦争とは武装したもの同士が戦うこと

これは沖縄の人が頑張ったこともあるのですが、日本と戦ってこれ以上日本に上陸したら、アメリカ軍の兵士は悲惨な状態になることが予測でいました。

1945年3月10日、東京大空襲を境に戦争ではなく殺人に切り替えたのです。多くの日本人は、まだ戦争と殺人の 区別がついていません。戦争とは武装した兵士と兵士が戦うことです。

両方武装 しているのが第一条件です。道路で縄飛びしてる女の子に対して、完全武装した兵士がライフルでその少女を撃ち殺したら、これは戦争ではありません。これは殺人です。殺人と戦争は厳密に区別されています。

遠くはギリシャ時代から戦争は軍人対軍人すなわち両方とも武装してる同士でなければならないのです。もう1つは軍人と軍人が戦う時は、白旗を上げる権利があるのです。

白旗を上げたら、戦争を終えて、白旗を掲げた方が、武装解除し捕虜になるので殺されません。捕虜は人間としての正当な取り扱いをしなければいけないのです。

このことが国際的に決まっています。つまり、戦争は軍人と軍人が最後まで 殺し合うことではありません。戦いをして「俺はもうダメだ」と思ったら、そこで白旗をあげて捕虜になるのです。

それが戦争の規則なのです。人間がどうしても戦争せざるを得ないから法を作っているのです。ところが、アメリカの東京空襲はどのようなやり方だったのでしょうか。

第7航空隊のル・メイ将軍が指揮しました。東京にはもう軍隊はほとんど駐屯していませんでした。ほとんどは、女性や子供、老人でした。まずアメリカ軍の第1波がサイパン島から出て行って、山手線の外側に通常爆弾を落としました。

通常爆弾は火薬ですから「ドガーン」と大きな炸裂音を立てて、鉄片が飛びかいます。そうすると女性や子供たちは怯えて山手線の中に入ります。そうなると、山手線の中には逃げて来た人たちでいぱいになるのです。


東京大焼殺

アメリカ軍は、避難民は特に公園のようなところに避難するだろうということを予測していました。そこで、第2波が時間をずらして出て行って、ちょうど東京にいる日本人の女性や子供が山手線の中に入る頃を目指して行きました。

落とした爆弾とは、ドラム缶にガソリンを入れたものです。これは焼夷弾と呼ばれるもを落としました。落とされた場所が、兵隊だったら全然大丈夫ですが、兵隊ではなく女性や子供たちです。

全部服に火がついて丸焦げになって10万人死んだのです。これはもう殺人なのです。戦争ではありません。最近では、京都アニメーション放火殺人事件が、2019年7月18日に京都アニメーションの第1スタジオで発生した放火殺人事件がありました。

バケツからガソリンを建物1階にまいてライターで着火しました。この結果、スタジオは全焼し、社員36人が死亡、33人が重軽傷を負いました。日本国内の事件では過去に例を見ない大惨事となりました。それほどガソリンが入った焼夷弾の威力は恐ろしいものなのです。

これをはっきり言わなければならないのです。日本中の都市に無差別爆撃をしました。無差別爆撃とは、武装していない 相手に対して焼夷弾を落としてはいけないのです。白旗をあげてもまだ焼夷弾を落とすのですからですから完全な殺人です。

豊橋付近の海岸にいる子供を戦闘機が来て機銃掃射して撃つのです。 相手が子供で、砂浜を逃げ回ってるのが見えているにも関わらず、20mm機関砲で殺して行ったのです。これは殺人です。これは計画的殺人です。


日本人皆殺し計画

日本にはその頃、重軍艦があり、日本軍は上陸に備えて待っていました。戦争とは国土を取るか取られるかの戦いです。ドイツは、東と西から来てベルリンまで 全部占領されて降伏しました。それが戦争の降伏と言うものです。

日本は日本列島 にアメリカ軍が1個も入っていません。しかしながら、沖縄に入って沖縄の人が酷い目にあった沖縄の戦争は、戦争と虐殺のちょうど間 です。

昭和天皇はなぜ8月15日に、広島長崎もっと非道状態でした。エノラゲイが来ました。広島にはもう軍隊がほとんどいなかったのです。そこへ原爆を落としたのです。死んだのはみんな、女性や子供、老人です。彼らは武装をしていませんでした。落とすぞという警告もありません。白旗も見ないのです。

ただ殺すのが目的です。 これはもちろん殺人です。広島の公園が平和公園と呼ばれます。しかしそう呼ばれるのはとても悔しいと思う人多いのです。

平和公園ではありません。殺人公園です。それはアメリカがビビったから日本軍に手をつけたら大変なことになることが予測できたからです。 戦争は嫌だその代わりに国民を殺していくことに決めました。 元々ルーズベルトは日本人を皆殺しにすると言っていました。

 原爆を何発でも落とすことに決定していました。3 月、4月、5月、6月、7月、8月15日約5ヶ月間、昭和天皇はどのように思ってポタム宣言を受託されたのでしょうか。


一般市民が虐殺されるのは忍び難い

軍隊はまだいたのです。天皇の元で身を投げ打って日本国を守ろうとしてる軍隊はほとんど手付かずでした。沖縄以外手付かずに、本土にはびっしりいたのです。

「さあ来い!」と思って待っていました。しかし昭和天皇は止めたのです。アメリカの攻撃が兵隊と兵隊の戦いではなく、武装していない一般市民の女性や子供、老人たちを殺すそういう作戦で来たからです。

それで昭和天皇は、「これ以上日本人が殺されていくのは忍び難い。だが軍隊は自分に忠誠を尽くしてくれるだろう」と。日本の軍隊ですから昭和天皇も確信があったと思います。

命を投げ捨てて国民を守ってくれると思ったと思います。しかし空から爆撃機が来て原爆を落としたりされたら何にも防備してない女子や子供たち兵器も持たない日本人がただ殺されていくだけ、それに耐えられずに昭和天皇はボダム宣言を受託したのです。

受託しましたが日本は降伏はしていません。実は戦争に負けてもいません。アメリカが取った虐殺行為を防ぐことができなかったのです。国際的には白人の世界です。日本を植民地にしようと思って襲って来ている人です。

マッカーサーは、昭和天皇が事務所に来られるときに命乞いに来たと思ったのですが、「責任は私だけにある。私が全部命令したことだ」と述べたのです。

天皇陛下は、条件を全然出しませんでした。戦争に最後まで反対したのは昭和天皇でした。まだ国土を防衛できる日本軍をたくさん抱えていて戦争することができましたが、日本国民が殺されるのを見るのに忍びないので、自分の命を投げ出し日本人の命を救ってくれたのです。

もしも昭和天皇が、自分のことをお考えになって軍隊を一緒に戦わせたら、大勢の人々が亡くなったのです。日本の死亡者は第2世界大戦は 軍人・軍属が約230万人、民間人が約80万人、合計約310万人でした

ドイツはドイツ軍210万~525万人(民間人は50万~78万人)死んでいます。もしも日本がドイツと同じように昭和天皇がご決意されずに戦ったとしたら、1000万人の死者を超えていたでしょう。昭和天皇がおられたので私たちは今ここに生きています。天皇という制度が、この国難から日本人の命を救ったのです。


URL<https://www.youtube.com/watch?v=ZbiS7Zpbl-c&t=357s>アクセス日:2023年12月13日

まとめ

東京大空襲、各都市の空襲、原爆投下、狙った無辜の民への機銃掃射が戦争だと戦後から長い間刷り込まれて来ている。

この行為は戦争ではない。虐殺である。戦争とは武装したもの同士が戦うことである。

これほど白人による人種差別が激しい時代だった。


紹介欄

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大東亜戦争の正体 それはアメリカの侵略戦争だった

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