この記事の概要
日本の覇権を狙う藤原氏の野望とプライドが日本を大東亜戦争で敗戦に導いてしまいました。歴史を振り返れば冠位や役職を藤原氏が独占したことや開墾した土地を荘園として私有地にしてしまうなど藤原氏に富が集中する仕組みをつくります。天武天皇の孫の長屋王を謀略で自害させるなど、藤原家の血の繋がっていない皇子を徹底的に排除したことなど、野望の血が日本そのものを焼け野原にしてしまいました。
藤原不比等
大化の改新は、皇極天皇4年6月14日の乙巳(いっしのへん、おっしのへん)の変に始まる一連の国政改革です。一般的には、狭い範囲の大化年間の改革のみを指します。広い範囲では、大宝元年の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含みます。改革そのものは、天皇ではなく、皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足の主導のもとに推進されました。
中大兄皇子と中臣鎌足が起こした645年の大化の改新から40年後に、頭角を現したのは、鎌足の子藤原不比等です。彼は本格的な律令体制の確立に取りかかりました。その集大成が701年に制定された大宝律令です。
編者は刑部親王ですが、取り仕切ったのは藤原不比等です。そして日本書紀が720年に編纂されます。これも取り仕切ったのは藤原不比等です。藤原氏を徹底的に正当化した歴史書であるとも言われています。
天智天皇の中大兄皇子の娘の持統天皇以降、長らく天智天皇系の天文が続きますが、藤原不比等は、滅ぼした蘇我氏と同じように天皇の外戚となっていきます
藤原四兄弟
藤原武智麻呂(680年 – 737年)(藤原南家開祖)
藤原房前(681年 – 737年)(藤原北家開祖)
藤原宇合(694年 – 737年)(藤原式家開祖)
藤原麻呂(695年 – 737年)(藤原京家開祖)
武智麻呂・房前・宇合は同母兄弟、麻呂は3人の異母弟であるなお、聖武天皇の母の藤原宮子と聖武皇后の藤原光明子はともに異母姉妹にあたる。引用元:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典 最終更新 2020年4月5日 (日) 18:14
四人の息子に別々の藤原家をつくらせました。これには理由があります。律令体制では、各家一人しか役職に就けないため、四家に分けて役職を独占するためです。
天智天皇の娘の持統天皇に取り立てられた藤原不比等は、大宝律令と日本書紀を通じこの現代まで続く藤原氏の栄華の基本をつくりました。滅ぼした蘇我氏のように律令制度というのは、土地の私有を認めず、すべて天皇のものとし、豪族は冠位や役職によって俸禄を得て、市民は土地を貸し与えられる代わりに租庸調といわれる納税の義務がありました。
租庸調(そようちょう)は、日本、中国及び朝鮮の律令制下での租税制度である。引用元:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典 最終更新 2020年5月8日 (金) 09:21
長屋王の祟り
ところが、この制度は、冠位や役職を藤原氏が独占したことや開墾した土地を荘園として私有地にしてしまうなど藤原氏に富が集中する仕組みとなっていきます。
藤原不比等は720年に亡くなります。その頃にはすでに、天皇の外積の地位を獲得しました。その後も天武天皇の孫の長屋王を謀略で自害させるなど、藤原家の血の繋がっていない皇子を徹底的に排除します。それから、外戚としての地位を強固なものにしていきます。
その後、不比等の四人の息子に、それぞれ別々の藤原家を名乗らせ役職独占を画策します。
各家に役職に就けるのは一名ずつと決められていたため、別の家にしてしまって、独占しようとしたのです。ところが、その四人の息子は天然痘で全員同時期に亡くなってしまいました。737年に全員死亡しています。
長屋王の祟りと言われています。藤原家は次男の房前の藤原北家が残りその後の摂政関白の地位を近世まで独占しました。
藤原 房前(ふじわら の ふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族。藤原不比等を父とする藤原四兄弟の次男で藤原北家の祖。官位は正三位・参議。贈正一位・太政大臣。
子:鳥養、永手、真楯、清河、魚名、宇比良古、御楯、楓麻呂、北殿、藤原豊成室
引用元:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典最終更新 2020年4月15日 (水) 10:24
五摂家
藤原家は、藤原北家は平安中期の藤原道長、頼通の頃に最盛期を迎えました。道長は三代の天皇の外戚となっているので特に有名です。一般的には、藤原家の栄華は、この辺を頂点として衰えてい来ます。しかしながら、その後も藤原氏は五摂家として名前を変え、時の有力者とたくみに閨閥を形成し生き残っていきます。
閨閥(けいばつ)とは、外戚を中心に形成された血縁や婚姻に基づく親族関係、又はそれから成す勢力、共同体、仲間などを指す。もともとは中国語で「閨」の意味は夜、寝るための部屋のこと。 引用元:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典 最終更新 2020年7月11日 (土) 10:13
五摂家とは近衛・鷹司・九条・二条・一条のことです。五摂家は摂政・関白として天皇を輔弼(ほひつ)する地位を独占してきただけでなく天皇の妃(皇妃)も独占してきました。まるで滅した蘇我氏のようになりました。
輔弼(ほひつ)は、天皇の行為としてなされるべき、あるいは、なされざるべきことについて進言すること。特に大日本帝国憲法下において天皇に大権の施行に過誤がないよう意見を進言することを意味した概念。 引用元:ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典 最終更新 2020年2月22日 (土) 00:47
平安から時代を進ませると鎌倉時代将軍家である源家の血筋が三代で途絶えてしまったときに、将軍に送り込まれたのが藤原北家の九条氏です。室町時代に入ると足利将軍家の正室を送り続けた日野家も藤原北家の流れを引きます。
江戸時代の徳川将軍家の正室も五摂家から多く排出されています。明治維新によって、再び天皇親政が始まると、五摂家の力は復活します。
第二次世界対戦直前の首相でだった近衛文麿は、五摂家筆頭の近衛家当主でした。天皇を輔弼し首相候補を天皇に奏上する役目つまり首相を実質的に決める権限があった元老の西園寺公望も藤原北家の流れを引く西園寺家でした。
(西園寺家:藤原氏北家閑院流の公実の男通季を始祖とする堂上公家。家格は摂関家に次ぐ清華家)
8世紀はじめに、藤原不比等が引いた路線がその後形を変えて時の政権の近くで存続し1200年以上も経った明治時代に再び表舞台に出てきたのです。
藤原家が日本を敗戦へ
藤原家が天皇家の裏で暗躍してきたその歴史とプライドが、日本を滅ぼしたのです。五摂家の筆頭近衛文麿が、昭和天皇を亡き者とし、新たな覇権を握ろうとしたという話が「近衛文麿 野望と挫折」にありました。
この内容によりますと、近衛文麿は、共産主義者やグローバリストを利用したのです。日本を第二次世界大戦へ駆り立て、真珠湾攻撃をさせました。NHK総裁として戦争を煽り立て国民を戦争へ追い込んでいきます。
戦争をわざと負けさせ、日本を焼け野原にしました。ここまでは彼の計画でした。ところが彼は、世界グローバリストたちに利用され殺されてしまいます。
藤の花に象徴される藤原家、歴史の最初から、陰謀と野望の血が脈々と引き継がれてきて、その野望が災いし、日本を焦土とし、日本は、今でも国際金融資本家の言いなりにされています。
参考文献:YouTube:世界のフシギ探検ch日本を支配する?歴史の裏に現れる名家『藤原氏』について
URL<https://www.youtube.com/watch?v=CF_FERg3CKU>アクセス日2020年7月12日
まとめ
藤原不比等は日本書紀を編纂し、その内容は、藤原氏を徹底的に正当化した歴史書であるとも言われている。
藤原四兄弟の次男北家から現在に至るまで藤原家の血筋がつながっている。
五摂家は摂政・関白として天皇を輔弼(ほひつ)する地位を独占してきただけでなく天皇の妃(皇妃)も独占してきた。