この記事の概要
イスラエルの10支族は失われてはいなかったのです。日ユ同祖論の始まりは英ユ同祖論から始まりました。その基が「失われた10支族」から始まります。ところが、聖書で検証してみるとルカによる福音書には「アシェル族のパヌエルの娘」と記述されており10支族が失われていないことが証明されているのです。パウロもヤコブも「12部族」という表現を使用しており失われた10支族という概念はありませんでした。
失われたイスラエルの10支族
古代イスラエルの12部族とは、ルベン族、(シメオン族)、レビ族、ユダ族、(ダン族)、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)、ベニヤミン族を指す。
一般によく認識されているユダヤ民族の祖は、第4族ユダ族と第12族ベニヤミン族に第3族レビ族を加えた3部族であり、失われた10支族から省かれる。
古代イスラエルの失われた10支族とは、ユダヤ民族を除いた、ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)を指す。
第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族の数人が日本に、第11族ヨセフ族(マナセ族、エフライム族)はエチオピアに移住したという説がある。
日ユ同祖論は、主に以下がある。
世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族(第9族エフライム族、第5族ガド族、または第7族イッサカル族)の数人が日本に移住したという説。
英ユ同祖論における、世界に散らばったイスラエルの失われた10支族の1支族であるという説。
イスラエルの失われた10支族は、日本に渡来したという説。
イスラエルの12部族全部が、日本に来たという説。
古代日本人は、ユダヤ人の先祖であるという説(古代イスラエル12支族=ユダヤ民族(ユダ族、ベニヤミン族、レビ族の3族)との勘違いから派生した説)。
皇室、物部氏ヨセフ族、出雲神族(クナド大神族)レビ族、出雲族(龍蛇族)ダン族とナフタリ族はイスラエル支族であるという説。皇室が分家の武内宿祢の蘇我本家から養子を迎えたところ、皇室へ養子に行った蘇我本家の王は富家レビ族からの養子だったので皇室が祭司王も兼ねるようになり王権と祭司権の両方を担ったという。
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年7月16日 (土) 13:12 での最新版を取得。
日ユ同祖論の始まり
日ユ同祖論の始まりは、日本の文化とユダヤの文化を比較し、その類似性を強調し、日本人のルーツは、ユダヤ人だと主張する人がいます。
日ユ同祖論は、日本人の祖先が2700年前にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十支族の一つとする説。但し、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人と共通の先祖ヤコブを持つ兄弟民族である。英ユ同祖論など、ユダヤ人と他民族文化を関連づけて論じられるユダヤ人同祖論のひとつ。
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しかしながら、相違点はほとんど無視されています。類似点だけが強調されるという一般的な特徴が、日ユ同祖論にはあります。公に知られている歴史では、日本人とユダヤ人が交流を始めたのはつい最近なのです。近現代以降の時代です。
しかし、日ユ同祖論を支持する人々は、交流し始めたのが最近であることを否定しています。日本人とユダヤ人の関係は太古の昔からあったことを主張しています。
ではいつ頃からに中同祖論が言われ出したのでしょうか。実のところ、それほど古くはありません。日ユ同祖論を最初に主張したのは日本人ではありません。ユダヤ人実業家です。
明治初期に来日した英国のユダヤ人実業家ノーマン・マクロードという人がいます。ノーマン・マクロード彼は明治8年に「日本古代史の縮図」という本を書いてます。
アッシリア捕囚
その本の中で両者の文化の類似性を彼は観察しました。日本人は北の10支族の末裔だと主張したのです。その後、日本人の中からも日ユ同祖論を主張する人たちが次々に出てきました。
日ユ同祖論の始まりを述べたのは、明治初期に日本に来たユダヤ人実業家のノーマン・マクロードでした。
明治8年からこの説が紹介されました。ここで気になるのが、「英国人」と「明治初期」です。英国人による歴史改竄が多く行われたと言われているからです。
今世界は、「ユダヤ化」に向けて進行していると言われています。もし日ユ同祖論がその種であるとしたら注意して見ていく必要があります。
ノーマン・マクロードは、日本人は北の10支族の末裔だと述べましたが、失われた北の10支族とは、何のことで誰のことなのでしょうか。
これを聖書的に見てみます。旧約聖書を読むと、ダビデ王国、ソロモン王国と続きます。ソロモンの死後イスラエル王国が南北に分裂します。
北に10支族、南に2支族がいました。北の10支族のことをイスラエルと呼びました。そのため、イスラエルというのは北王国のことを指します。南の2支族のことユダといったのです。そこで、ユダというのは南王国のことです。ダビデ王朝に属します。
正当な王朝とは、南王国なのです。この辺りが日本の太平記に似ています。北朝と南朝で、南朝が正統と言われていますが、それは江戸末期に言われたことであり、足利義満の時には、三種の神器が北朝方に移されていますので北朝が正統なのです。
この三種の神器を持たずして天皇の皇位を受け継ぐことはできません。しかしながら、草薙剣は源平合戦の時に、安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んでいますので、現在ではレプリカとも言われています。
イスラエルの12部族の国家は、南北に分かれます。先に滅びるのが北王国です。アッシリヤ捕囚の紀元前722年に北王国は捕らえられてしまいます。
アッシリア捕囚によって連行されたのは、主に貴族階級、指導者層という上流階級の者たちでした。彼らが連行されたのです。イスラエルの神と安全保障を結んでいたのですが、どうしたものか全知全能である神は簡単に安全保障を破ってしまいます。
アッシリアは残酷な政策を採用していました。民族を根こそぎ疎開させて、住む場所を変え、別の民族を持ってきて民族混合政策を取っていたのです。それは、イスラエル民族によって復讐できないように人工的な民族作りをしたという事です。その結果誕生したのがサマリア人と呼ばれる人たちです。聖書では良きサマリア人として登場する場面が有名です。
アッシュリアに連行された後、北の10の支族の一人一人がどうなったのかよく分かりません。「北の10支族の消息は途絶えた」と歴史的に言われています。
バビロン捕囚
それに対して南王国ユダは、少し時代が下って紀元前586年、バビロン捕囚に遭いました。バビロンに連行されたのです。この場合も連行されたのは主に貴族階級です。平民たちは依然としてイスラエルの地エルサレムに残されたというな経緯があります。
南王国ユダは2つの部族からなっています。ユダ族とベニヤミン民族です。この2つの民族はアッシリアの扱いよりも緩やかなバビロニア帝国の扱いを受けました。
かなりの保護を受けました。捕囚後の先で保護を受けたということです。そして捕囚に引かれてから70年後、支配者が変わります。ペルシャのキュロス王、クロスとも言いますが、ペルシャのキュロス王の勅令により、ユダヤ人たちは諸国の父祖の地に帰還することを許されました。
しかし、全員が帰還したわけではありませんでした。ほんの一部です。帰還したのは少数派です。なぜならば、バビロンの生活に満足してしまったからです。そこに根を張って帰ろうとしなかったのです。本当に信仰を持っている人だけが父祖の地に帰って行きました。
この時からユダ族にちなんでユダヤ人という言葉が用いられるようになりました。帰還した人々の多くがユダ族だったため、ユダヤ人という言葉が用いられるになったのです。
それでは、2支族が帰還した時に、アッシリア捕囚でその時代、各地に散らばっていた北の10支族も南の2支族とともにその地に帰還したのかどうかが問題になります。
英ユ同祖論
失われた北の10支族を基に、日ユ同祖論ができました。しかし、これは日本だけではありません。失われた北の10支族の伝説は、例えばイギリスにもあります。
イングランドはイスラエルの末裔だと最初に述べたのは、7世紀の英国議会の議員ジョン・サドラという人物です。
ジョン・サドラ議員によりますと、イングランドはイスラエルの末裔だと述べました。それをさらに発展させて大ブリテン民族が失われた北の10支族であるという考えが、18世紀のイギリスで広がります。さらに発展させて「アングロサクソンも10支族の末裔である」と言われるようになります。
プロテスタントのクリスチャンが提唱したブリティッシュ・イスラエリズム(British Israelism)は、19世紀でした。日本の場合は、日ユ同祖論です。英語に訳すと日本イスラエリズム(Japanese Israelism)です。
ブリティッシュ・イスラエリズムだと英ユ同祖論です。イギリスとユダヤが同じ先祖を持つという考えが、19世紀に非常に広がったのです。アメリカでもこの影響が出ました。
GW
グリーンウッドが、月刊誌世界の遺産を創刊したのは、れ1880年です。19世紀後半です。グリーンウッドが、アメリカにおけるブリティッシュ・イスラエリズムの主導者となりました。そしてなんと今も、ブリティッシュ・イスラエリズム、つまり英ユ同祖論運動を展開する団体は多く存在しています。
日本の日ユ同祖論大好きという人がいるのと同様な状況が、イギリスやアメリカにもたくさんあるということです。
失われた10支族を聖書と照らし合わせる
失われた北の10支族の議論を聖書に照らし合わせたらどうなるでしょうか。聖書に基づく議論として、ルカによる福音章2章36節には、母マリアとイエスが神殿に行った時、生後40日、アンナという女預言者がいたという記事です。「また、アシェル族のパヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、」
紀元70年にエルサレムの神殿が崩壊した時、ユダヤ人達の系図は失われました。それ以前は系図を持っていました。それ以降は系図を失いました。そのため、イエス誕生の頃ユダヤ人たちは系図を所有していました。つまり自分達が何族かといういうのはよく分かっていたのです。
幼子イエスを祝福したアンナという女預言者は、アシェル族のパヌエルの娘であったと記録されています。「アシェル族」と出てきます。す「アシェル族」は北の10支族の中に属する一つの部族です。
その時代は、イエスが誕生したおそらく紀元30年頃です。その頃少なくともアシェル族は失われていないことになります。北の10支族が失われているという理屈自体が聖書に照らし合わせれると、失われていないことが分かってきます。
使徒業伝26章7節のパウロの弁明には、「わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。」とあります。
パウロは私たちの12部族と言っていました。私たちの2部族と言っていません。ちなみにパウロはベニアミン族ですので、南の2支族の一つです。
パウロは12部族と言っています。ということは、パウロが話しているこの時には、パウロの頭の中では失われた北の10支族という概念はありませんでした。
「失われた北の10支族」の考えは、間違いであることが聖書と照らし合わせると分かります。ルカによる福音書を読みました。使徒業伝を読みました。
ヤコブの手紙1章1節は、ヤコブの挨拶文です。神と主イエスキリストのしもべヤコブが離散している12部族に挨拶を送りました。
ヤコブは「12部族に挨拶を送る」と述べています。。12部族は当時世界に離散していましたが、失われてはいないだからヤコブは「離散している12部族」に挨拶を送りますと書いたのです。
聖書的には失われた北の10支族論とは根拠がないというのが分かります。
南の2部族が、バビロンから先祖の家に帰還した時に、北の10支族も一緒に帰還したと考える方が妥当です。アッシリア捕囚では混血が進みましたが、それでも信仰とイスラエルの血は絶えなかったのです。
今のユダヤ人たちは自分が何族に属するか分かっていません。しかし今のユダヤ人の中には、北の10部族の子孫がすでにいるということです。失われてはいない現代のイスラエの中にそれが回復されているということです。
失われた北の10支族論が誤りならば、それは聖書的には成り立ちません。ブリティッシュ・イスラエルリズムも日ユ同祖論も基礎がなくなり、誤りだということになります。
まとめ
信仰が強いイスラエルの10支族は、バビロン捕囚時に南の王国の2支族と共に帰還したと考えるのが妥当だ。なぜならば、アシェル族のパヌエルの娘とルカによる福音書で述べられており、10支族は離散したとしても失われてはいない。
多くのキリスト教新興宗教では、「失われた10支族」を集めるとあるが、それは英ユ同祖論による影響が大きい。
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