この記事の概要
長崎に原爆を投下した乗組員は全員クリスチャンであり、爆心地から500mに位置していた浦上天主堂の教会内では、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて「赦しの秘跡(告解)」が行われており、多数の人が集っていました。当時この地区には約15,000人の信者が住んでおり、そのうち10,000人あまりが原爆による熱線や瓦礫の下敷きになり亡くなったと言われています。
原爆が落とされた理由の通説とは
「原爆投下は第二次世界大戦を終結に導いた」と世界では言われていますが、特にアメリカでよくそのように語り継がれています。しかしながら、 それは本当だったのでしょうか。
2つ目の原子爆弾、8月9日に長崎に投下された原子爆弾を運んだアメリカ米軍機の乗組員たちは、全員クリスチャンでした。彼らが標的にした場所は、長崎の浦上天主堂だったのです。
長崎は、当時日本で最もクリスチャンが多かったところでした。原爆を落としたアメリカは、世界で最もクリスチャンの多い国でした。アメリカのクリスチャンが、日本のクリスチャンを原爆で虐殺したのです。
核兵器を人類の歴史上しかも、民間人に使用したことのある国はたった1カ国です。それはアメリカです。既に80年近く経った 今日でも、アメリカの政府、マスコミ、教育者たちは「日本を降伏させ第二次世界大戦を終わらせるために、原爆投下は必要だった」と主張しています。
原爆を急がせたのはソ連の宣戦布告
彼らの論理は「広島・長崎の原爆投下は、その後の戦闘で失われるはずだった多くの命を救った」というものでした。彼らの論理は、筆舌に尽くしがたい残虐行為を崇高な行為にしています。この説は 全くの誤りです。「誤っていた」ということが、アメリカのメディアから出始めているのです。
2013年5月30日のフォーリン・ポリシー(1970年に創刊され、世界情勢、時事問題、国内外の政策に焦点をあてている、アメリカ合衆国のニュース誌)という外交政策専門のアカデミックなメディアに掲載された内容です。
この記事では、「第二次世界大戦で日本を倒したのは、原爆ではなく、スターリンだった」と。今までのアメリカの通説をこの記事は否定します。
「あの2つの原爆は、確かに大変な人類の悲劇であり、それによって日本を倒して、第二次世界大戦を終わらせることができ、多くの命を救った」というこの論説は、間違っている」とこの記事は述べているのです。
日本の指導者はいつ降伏を決めたのでしょうか。通説では「広島・長崎の原爆が落とされて、その悲劇を見てようやく日本の指導者たちは降伏を決めた」と言われています。
正式には8月10日の午前会議とされています。8月9日が長崎の原爆ですから翌日です。日本はポツダム宣言受諾を承認しています。しかしながら、「事実は違う」ことを、フォーリン・ポリシーは述べています。
ポツダム宣言受諾を承認した午前会議は、8月10日でしたが、その前日の8月9日の朝、11時2分に長崎に原爆が投下されるより前に、当時の日本政府の最高会議が開かれています。これは日本政府の6人のトップで構成されていました。この会議でポツダム宣言受諾の方向にあったのです。
ソ連防衛の満洲部隊が対米のために九州へ移動
これは長崎の原爆の前です。日本は、これまで14年間も戦争を続けてきました。日中戦争から始まり、第二次世界大戦までの14年間の戦争を続けてきた日本の指導者が、突然、考えを変えて「降伏する」と決めた原因は、広島 ・長崎の原爆ではありませんでした。
原因は「ソ連の宣戦布告だった」とフォーリン・ポリシーは述べています。 8月9日の未明に、ソ連が対日戦線を宣言しています。当時、日本とソ連の間には日ソ中立条約がありました。それを破ってソ連が突然、戦線布告して、満州に侵略を開始したのです。
日本は、ソ連には、戦争の調停交渉の仲介役を期待していました。ところが、事態は全く違った方向になり、逆に 宣戦布告されてしまったのです。
日本は、対アメリカ戦線に関して、「アメリカが日本の本土に向かって侵攻してくる場合、その標的はまず、九州だろう」と 予測していました。
日本軍は、満州にいた非常に強い陸軍部隊を九州に移動させていたのです。満州にいた部隊がいなくなった後、そこにソ連が宣戦布告して入ってきました。ソ連軍10万は、さらに南樺太を、あっという間に侵略しました。
あと10日から2週間もあれば、ソ連軍は北海道に上陸して侵攻する準備ができるところまで来ていました。北海道を防衛するための日本軍は 二個師団(軍隊の部隊編制単位の一つ。旅団・団より大きく)と二個旅団(1,500名から6,000名程度の兵員)だけしかありませんでした。
この段階で日本は、アメリカとソ連という二つの大国と二正面で戦うことになってしまったのです。この二正面作戦は非常に不可能です。米軍が九州に侵攻するまではまだ数ヶ月の猶予がありますが、ソ連軍の北海道侵攻までは、もう10日しかないのです。
ソ連侵攻で降伏を決断
ここで日本の選択肢は消えました。日本は外交交渉と軍事でこの難局を越えようとしていましたが、選択肢がなくなりました。なすすべがありません。
ここで 日本は降伏を決めました。午前会議の前に、日本に降伏を決めさせたのは、ソ連参戦でした。この状況に焦ったのは、アメリカでした。
もし、ソ連が先に日本を破ってしまったら、日本はソ連の配下に入って 社会主義国家になり、第二次世界大戦が終わり、日本との戦争が終結したら、即、米ソ冷戦が始まるということが分かっていました。
そこで、日本に対して アメリカが原爆を投下したのです。「これは、戦争を終結させるためでもなく、この後すぐ始まるソ連に対する第一撃だった」というのが、ここでの主張です。日本としては、とんでもない話です。
「原爆投下は戦争終結に必要なかったことをアメリカ政府文書が認めている」という内容です。「広島と長崎への原爆投下は 第二次世界大戦を終わらせるために必要なかった」と。
アメリカ政府の文書が既に認めています。「日本が降伏寸前だった核攻撃は、ソ連に対する冷戦の最初の攻撃だった」ことをアメリカ政府文書が述べています。
しかもこれは第二次世界大戦が終わった後、すぐに出された当時の文書に書かれているのです。1945年12月31日以前、おそらくは12月ではなくて1945年の11月1日以前であれば、「原爆が投下されなかったとしても、日本は降伏していただろう」とアメリカ政府自身が分析していました。
ヨーロッパ戦争の時の将軍だったアイゼンハワー元大統領が 戦後の回想録の中で次のように述べています。
彼はアメリカの原爆投下を非難して「日本に原爆を落とす必要はなかった」と回想録で書いています。この時、アイゼンハワーは、ヨーロッパ戦線にいて、日本との戦いは担当していなかったのですが、それを非難していました。「広島・長崎への原爆投下について、アメリカや世界で言われている通説は嘘である」という証明です。
その嘘に基づいて、これまで核兵器についての理論や思想が、戦後何十年も続いて来ました。それが根本的に間違っていたのです。
原爆投下をしたのは全員クリスチャン
コンソーティアムニューズのサイトでにおいて、(8月9日)論説が出ています。「最もクリスチャンらしくない行為だった長崎原爆」という内容です。
長崎原爆投下の米軍機の乗組員は、全員クリスチャンでした。彼らの標的は、東アジア最大のキリスト教会だった浦上天主堂だったのです。当時、長崎は日本で最もキリスト教徒が多い都市でした。
当時アメリカは、世界で最もキリスト教の多い国だったのです。アメリカのクリスチャンたちによって、長崎に原爆が落とされる悲劇があっていいのでしょうか。
クリスチャンの乗組員たちは、戦争中の命令に従っただけなのでしょう。しかしながら、これは明らかに民間人への大量虐殺であり、後に行われたニュルンベルグ裁判の「人道に対する罪」に当たるのです。
この長崎に焦点を当てると、この2発目の原爆は、もともとは小倉に投下されるはずでした。乗組員は、目視で爆弾を投下するように指示を受けていました。
当日、小倉は雲におおわれていて、米軍は小倉上空で3回爆弾投下を試みましたができませんでした。そのため彼らは、小倉のバックアップとしての第二の標的であった長崎に向かいました。
長崎はキリスト教を守り続けた
当時、アメリカは、日本の人口10万人以上の都市全てに爆弾を落とす準備をしていました。長崎はきれいに残っていました。その長崎にある浦上天主堂、当時、非常に大きなキリスト教会でした。
その周辺には、12,000人の日本人クリスチャンがいたのです。アメリカで、万単位の教会員のいる巨大な教会のことを、「メガチャーチ」と呼びます。
しかし、この当時、今から80年前にこんなメガチャーチが、日本にあったのです。12,000人の日本人クリスチャンがいました。今ならば、その10倍ぐらいに当たるのではないでしょうか。数十万人の教会とも言えます。
メガチャーチになるまでの長崎は、大変な歴史を経験してきています。1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが、長崎に教会を設立しています。
その後、ポルトガル、スペインが「ここがクリスチャンの街になった」ということで、大勢の人々が入ってくるのですが、悪道の商売人がキリスト教を利用してたくさん入ってきます。
そこで彼らが日本との貿易で日本からの搾取をします。それを見た当時の江戸幕府は、ヨーロッパ人を日本から追放し、キリスト教を大弾圧しました。
この当時、日本人でキリスト教徒であるということは、死罪にあたりました。彼らは拷問に遭ったり、十字架刑を受けたりしたのです。誰の目から見ても日本のキリスト教は、この時代で絶滅したように見えました。
ところが、その後、幕末になって黒船が来航します。これによって、アメリカとの貿易のために、日本が開国したのです。その時に、長崎には、何千人ものクリスチャンが存在していました。
彼らは幕府に全く知られずに信仰生活を送っていたことが分かったのです。このことは、幕府にとって非常に屈辱的なことでした。当時、この後 もう一回、長崎のクリスチャンたちは、弾圧を受けましたが、長崎のキリスト教は、地下教会から蘇りました。
クリスチャンが住む場所に原爆が投下された
1914年には、政府援助一切なしで巨大な聖マリア大聖堂である浦上天主堂を建てました。その31年後、浦上天守堂に原爆が投下されたのです。
当日、浦上天主堂の教会内で、8月15日の聖母被昇天の祝日を間近に控えて「赦しの秘跡(告解)」が行われており、ここには多数の人が集っていました。その集会中に至近距離に原爆が落とされ、原爆による熱線や瓦礫の下敷きになり即死したと言われています。主任司祭・ラファエル西田三郎、助任司祭・シモン玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡しました。
当時この地区には約15,000人の信者が住んでおり、そのうち10,000人あまりが亡くなったと言われています。
残りの人たちは、致命傷や不治の重症を負っています。子孫たちも何代にも渡って免疫不全になったりして今でも苦しんでいる方々がいらっしゃるのです。
日本の支配層たちが日本のキリスト教徒たちを250年に渡って迫害してきました。ところが、日本の支配層が250年の迫害でもできなかったことをアメリカのクリスチャンはたった9秒で「クリスチャンを絶滅」させてしまったのです。非常に悲しい内容です。
この原爆投下から50年後、当時 米軍の従軍神父だった ジョージ・ザベルカ神父が長崎を訪れて、涙ながらに悔い改め、原爆投下に加担したことへの 許しを願っています。アメリカのクリスチャンの中には、78年前の長崎原爆の罪と向き合っている者もいたということです。
参考文献:ユーチューブ、2023.8.10【米国】原爆投下は戦争終結に必要なかった。米政府は認めていた。【及川幸久−BREAKING−】※多言語字幕ありMulti-verbal subtitles※
URL<https://www.youtube.com/watch?v=2Qag9bpDZso>アクセス日:2023年8月11日
まとめ
この文の中には記述されていないが、広島と長崎の投下場所に共通するのは、共にタルタリア様式の建物だということだ。幕末から明治にかけて謎の大火災が起きたが、タルタリア様式の建物を破壊する活動だったのではないだろうか。
日本から前文明の遺物を排除するためにあらゆる手段で破壊工作を行った。