明智光秀は落ち武者狩りで命を落としていなかった

明智光秀は落ち武者狩りで命を落としていなかった

  • 2020年1月28日
  • 2020年7月23日
  • 歴史

この記事の概要

明智光秀は落ち武者狩りで命を落としていなかった可能性が高いようです。フロイスの「日本史」では、光秀の首をはねたのも農民となっており、介錯をした溝尾勝兵衛も登場しません。天下の謀反人には不名誉な死に方がふさわしいと判断され、こんな作り話を流布させていたのです。


光秀は死んだのか

本能寺を襲って主君の織田信長を打った明智光秀でしたが、山崎の活線で敗北し落ち延びる途中、農民の落ち武者狩りにあい命を落としました。

その死後から、明智光秀が生きていたという伝説が誕生したのです。その理由として、ある人物に変死して、歴史の表舞台に登場したという伝説もあります。

本能寺の変本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件です。

信長は寝込みを襲われてしまい、包囲されたため「ここまで」と悟ると寺に火を放ち自害して果てたのでした。

6月2日に信長を討った明智光秀は、11日後の13日に山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れました。そのため本拠の坂本城に向けて、敗走したのです。

その途中の小栗栖(おぐるす:京都伏見)で、農民に竹槍で脇腹をつかれ落馬してしまいました。光秀は、「ここまで」と悟り切腹したと言われています。


光秀の首は本物だったのか

その首は隠されたのですが、のちに探し出されて晒し首になりました。ところが後に奇妙な噂が流れます。光秀が生きているというのです。光秀の首が本物なのかどうか疑わしかったことが原因だったのです。

秀吉のもとに光秀の首が届けられたのは死んでから3日が経っていたので、首の腐敗が激しい状態でした。首の信憑性というのは、源義経同様、腐敗してしまうと本物なのか替え玉なのかがわかりません。

DNA鑑定が無かった時代ですから、見た目で判断するしか無かったのでしょう。

秀吉が「この首は違う」と言ったとか、光秀の首が三つも持ち込まれたとか怪しい話が広まりました。

そのためなのか、光秀の首は見物人が確認できないほど高い位置に晒されたようです。


光秀の死に方

死に方にしても光秀が竹槍に突き通されるような鎧を未身に付けていたのでしょうか。光秀には護衛もいたはずなのに農民に殺されてしまうほど弱かったのでしょうか。

それに、護衛が打たれたり争ったりという話が出て来ません。

事件から約50年後のことですが、村を調べたところ光秀を手にかけたとされる中村長兵衛という農民のことを誰も知らなかったそうです。

光秀を撃った村人ならばとても有名になっているはずです。ところが、村を訪れた人の記録では村民の誰もがこの人物のことを記憶していませんでした。

中村長兵衛という人物ははじめからいなかったとししか思えません。光秀の死の経緯には、作り話の気配が濃厚です。

フロイスの「日本史」では、光秀の首をはねたのも農民となっており、介錯をした溝尾勝兵衛も登場しません。

天下の謀反人には不名誉な死に方がふさわしいと判断され、こんな作り話を流布させていたのです。フロイスはそのような噂話をすくいあげたにすぎないのです。

武士によってではなく農民によって殺されたほうが光秀の名誉を貶めるには秀吉たち為政者には都合が良かったのでしょう。従臣の溝尾勝兵衛を調べれば、真相が見えてくるかもしれません。


石灯籠が寄進説

比叡山には慶長20年2月17日寄進願主光秀という石灯籠が寄進されています。これは山崎の合戦から33年後となる1615年のことです。この年まで光秀生きてたと思われています。

しかもこの慶長20年は、ちょうど大坂冬の陣が終わり、大阪城の堀が埋められていました。豊臣家の命運が尽きようとしていた頃ですが、光秀が明智光秀とは限らないという反論もあります。


光秀が天海に生まれ変わった説

徳川家康のブレーンとして働いた天海でしたが、その正体は光秀だったのではないかというものです。天海は家康晩年の黒幕的存在であり宗教や政教顧問として家康の篤い信頼を受けていました。

この天海は会津出身で出家して比叡山に入り、奈良の寺で学び、一時は、武田信玄のもとにいたとも言われています。ところが、前半生は曖昧で、自身の過去を人にあまり話したがらなかったとのことです。

そんな天海が歴史の表舞台に出るのは武蔵国の無量寿寺北院に入ったとされる1588年頃です。光秀が山崎の合戦で歴史から消えてから数年後のことでした。

光秀が前半生の人生を捨てて新たに天海になり変わったという可能性があり得るとされています。しかしながらこれは、あまりにも都市伝説過ぎます。

都市伝説では、次のような説が天海=光秀説の根拠とされています。家康と天海が初めて会ったときには旧知のように話し込んだとされています。これは家康にしては珍しいことだったようです。

京都府にある光秀ゆかりの慈眼寺(じげんじ)の本堂に光秀の位牌と木像を安置しています。天海の諡号(しごう:死後に贈る名前)慈眼大師と慈眼という寺名の一致が光秀の存在を思わせます。

大阪にある本徳寺には光秀の肖像画、位牌などがありますが、そこには光秀が「僧侶になって去って行った」とされる文章も残されています。


類似した桔梗紋

天海の差配(さはい:指図してとりさばくこと)で造営された家康の廟である日光東照宮には明智の紋である桔梗紋が使われています。

この桔梗紋については、いくつか問題があります。

この説は日光東照宮の設計者である天海僧正が明智光秀であるという根拠として使われています。桔梗紋は明智光秀の紋だからです。

光秀の紋が東照宮にあったからといって、それが光秀が天海僧正である証明にはなりませんが、この説には決定的な欠陥があります。

それは、桔梗紋だと主張されている紋が桔梗紋ではないという極めて簡単な事実だからです。

桔梗紋とされるものは次の2箇所です。どちらも桔梗紋ではないのです。

陽明門の門衛の袴の紋

これはどこから見ても織田家の木瓜紋(もっこうもん)です。家紋の本で調べるまでもなく、誰が見ても桔梗紋とは別物です。

陽明門の先にある鐘楼の壁やひさしの紋

これは確かに桔梗紋と見間違えます。花弁の先を見ると見分けがつきます。桔梗紋は先がとがっているのに対して、この紋は先が丸まっています。これは家紋ではなく装飾用に多用された唐花紋(からはなもん)なのです。


春日局の存在

日光にある高台を明智平と名付けたものは天海です。地名に人名をつけるのはしっくりこない点です。この辺りは謎です。

そして何より天海=光秀説の理由とされるのが三代将軍家光の乳母春日局の存在です。

幕府で権勢を振るった春日局は、光秀の親戚で重臣の斎藤利三の娘でした。

彼女は乳母募集に応募したことになっていますが、将軍家の跡継ぎの乳母に謀反人の娘が選ばれるでしょうか。天海の身内だったからこそ乳母にしたのではないかとも言われています。

家康は、土岐明智家を再興させています。謀反人の明智家への厚遇ぶりには何かあったのでしょうか。


秀吉への復讐説

なぜ光秀が天海となり家康に接近したのでしょうか。それは自分を葬った宿敵豊臣秀吉への復讐心と考えられます。

家康も光秀の才能を買っていました。しかしながら、天海が歴史の表舞台に登場するようになったのは秀吉の死後のことです。

天海が関ヶ原の合戦に出陣したという説もあります。関ヶ原合戦屏風には家康の近くに陣取る軍師天海が描かれていものと。

軍師として策略を裏で練っていたのかもしれません。なぜなら小早川秀秋が家老稲葉正成の説得で徳川方への寝返り、これが家康の勝利を決定づけたからです。

正成の妻は斎藤利三の娘で、のちの春日局です。天海もこの秀秋、正成の同行に何か関与していたのかもしれないと言うのです。

豊臣家を滅亡させた大阪の陣のきっかけとなった方広寺の鐘の一件(鐘の名が家康を冒涜していると抗議)も天海の入れ知恵とされています。

こうして家康を使って豊臣家に復讐を果たした光秀は、日光東照宮や比叡山などに自分の正体を残したとも考えられます。


様々な光秀生存説

天海は1643年に108歳でなくなったとされますが、光秀であれば、もう少し年上になります。人生50年時代に108歳はあまりにも長寿です。

他にも多くの光秀生存説が流布されています。

茶人千利休説では正体が光秀と知られて自害したとありますが、これはあまりにも飛び過ぎています。

死んで晒し首になったのは光秀の影武者だったと言う説があります。江戸時代に成立した「翁草」には死んだのは光秀の影武者で、本物の光秀は美濃山中の中洞(なかほら(岐阜県山県市))に生きながらえたと記されています。

光秀は故郷でひっそり暮らしたと言う説があります。光秀は自分の身代わりになった家臣の荒木山城守の深い忠誠を忘れまいと荒深又五郎(または小五郎)と名乗り中洞で隠遁生活を送ったと言うのです。

しかしやはり秀吉に対する恨みは忘れがたかったので1598年には江戸に出て、家康に会い、何かあれば味方すると約束します。

そして関ヶ原の合戦に赴く途中、増水した薮川(根尾川)を渡っているときに濁流に飲み込まれて溺死したと伝えられています。光秀75歳でした。

一番ロマンがあるのは、光秀=天海説です。明智光秀も生きていて南光坊天海になっていたことも理解できますが、木内氏は、この説を否定しています。

木内鶴彦氏が臨死体験で見た、信長は、本能寺の変では死にませんでした。生きていたことになります。本能寺の変は、信長と明智光秀によって仕組まれたものだったのです。信長と光秀は、共にローマへ渡っています。


参考文献:織田信長のデスマスクの信憑性

参考文献:YouTube:歴史の細道:明智光秀生存伝説について

URL<https://www.youtube.com/watch?v=t2yUWsMOc_k>アクセス日:2020年1月28日

写真出典:『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2020年7月18日 (土) 18:43 (日本時間)現在での最新版を取得。


まとめ

光秀の首は死んで3日が経過し見物人が確認できないほど高い位置に晒された

光秀を手にかけたとされる中村長兵衛という農民のことを誰も知らなかった

日光東照宮の桔梗紋は明智光秀の紋に似ているが桔梗紋ではない

天海=光秀では年齢に差がある


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