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この記事の概要
太平洋戦争は藤原文麿の乱が原因だったのです。藤原が武家を利用したように、近衞文麿にとってアメリカ軍もコミンテルンも武家なのです。武家を利用したつもりでしたが、更にしたたかな資本主義界の大貴族と言われているロスチャイルド系やロックフェラー系統に大日本帝国潰しのために逆に利用されてしまいました。
大東亜戦争の側面
大東亜戦争は様々な側面がありました。
- 世界の国際的な力学
- 軍事戦略的
- 国内政治的
- コミンテルンの動き
- 国際金融資本の動き
など含めた点です。
もう一つ、日本特有の特徴がありました。これが大東亜戦争は100年、200年経って振り返ってみたところ、アカデミズムの人々にとって、林千勝氏の研究が実は正しかったとする時代がもし来るとすれば、「昭和の藤原乱」と言われてた可能性があります。
しかしながら、この瞬間に、東京裁判史観も崩壊するので、アカデミズム言論界のマスコミは話には出したくないのです。
近衛文麿は藤原文麿です。その藤原文麿が、昭和に大乱を起こしたのです。そのため日本は、国体を失う寸前にまで陥ってしまいました。そして、藤原文麿の野望は成就しませんでした。大日本帝国はなくなってしまいましたが、その後も、日本国が続いています。
歴史を見てみると、公家の頂点に君臨する藤原は、長年昔から、武家を利用したのです。藤原が武家を利用したように、近衞文麿にとってアメリカ軍も武家です。コミンテルンも武家なのです。武家を利用したつもりでしたが、結局、近衞という藤原よりも、更にしたたかな資本主義界の大貴族と言われているロスチャイルド系やロックフェラー系統に、大日本帝国潰しのために逆に利用されてしまいました。
近衞文麿の虚像
近衛文麿自身も当時、虚像をつくろうとしていました。偽っていたのです。そのため、当時の人々の多くが騙されました。戦後も、東京裁判史観を守るために、当時の近衞文麿の虚像と偽りは、そのまま続いています。同じ状態で続いているのではなく、その「虚構がむしろ増幅拡大されているのです。
近衛文麿は皇室の藩屏(はんぺい:特に、皇帝・皇室の守護となること)だと言われました。公家のトップにおり、まさに天皇をお守りする立場のはずなのですが、近衞文麿は皇室の藩屏ではなかったのです。
近衞文麿は「優柔不断」と総理大臣の時から言われていました。盧溝橋事件(中華民国北京西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件)が7月7日に起こりました。
あれは偶発ではなく、現地で停戦協定も結ばれているにも関わらず、支那の国民党の計画的な日本侵略だとして暴支膺懲(ぼうしようちょう:大日本帝国陸軍のスローガンで、第二次世界大戦の直前から終結までの代表的な反中キャッチフレーズ)として、国内から3個師団を中国へ送り込むのです。
蒋介石側から見たら、停戦協定を結んでいる中で、偶発事故にもかかわらず、国民党が誤っただけなのにそんなことしてくるのは、近衛内閣の侵略政権と思うのです。近衛は、その後、すぐ寝込みます。風邪と称して体が悪いと、一番大事な時期において。
もしその戦争を起こさないという堅い意志があったのであれば、1、2週間でその偶発的事故を完全に火消しができたのです。石原莞爾もその間に、「近衞が行って国民党と会見すれば、全く紛争にならない事変だった」と述べていたのです。しかしながら、近衞は寝込んでしまいました。
最近の政治家は何かあると寝込んでしまいます。でもそれは、世間の人に優柔不断のように見せるか同情を引くようにしているのです。しかし、優柔不断ではありません。計算ずくです。
現代の近衞的優柔不断戦術
これに関連して尖閣について述べてみますと、例えば、愛国者・保守陣営側から見ると、当局は非常に優柔不断と感じます。はっきり中共へ物申せないからです。同様に政治家もしていません。現場の責任者も「優柔不断でやる気がない」と思ってしまいます。
しかしながら、この態度は優柔不断ではないのです。政治の核心部分は、パワーバランスです。計画的に日本の国民世論を意識して、国民世論を盛り上がらせず、ズルズルと中共に実効支配させるシナリオがあるのです。
最近では、中国船が島の周りを跋扈(ばっこ:悪人がのさばる、はびこるなど)しています。その周りを海上保安庁は、「民間の船が近づてはいけない」と警告しています。
これは、国民に奮起させないで「ズルズル」といつの間に尖閣を取られているという仕上げに近い状況です。中国漁船が、実は漁民ではない人々が、船の故障で尖閣諸島に流れ着きます。そこで、中国の海上警備隊の船が引き取りに行ったついでに、中国の標識を立てるかもしれません。そうなると、米軍が出ようもありません。
そうなると親中派の議員が、「これではしょうがないじゃないか」とそのような空気になるような気がします。国民も「島が1個くらい取られてもいいじゃないか」と思ってしまいます。大手の新聞社は、決して1面トップ記事にしないのです。
今のメディアは、恐ろしく世論誘導しているのが見えます。中共にとって、尖閣諸島を押さえれば台湾への圧力は、また格段に高まります。そのようなシナリオが近衞文麿にとっては、優柔不断ではなかったのです。
今の自民党の核心にいて、「ズルズル」とやってるように見えても、決して優柔不断ではなく、計画的に、確固たる意思を持って行っています。
平和主義者としてのイメージが刷り込まれた
近衞文麿は、「平和主義者」と言われました。グルーアメリカ駐日大使にも「平和主義者」だと言うイメージを刷り込んで、信じさせていました。フーバーも近衞を「平和主義者」と回顧録に書いています。近衞は日本の敗戦を見越して、日米開戦が始まってすぐ回顧録を書き出しているのです。
そこで近衞は日米交渉にいかに尽くし、自分はいかに「平和主義者」であったかと書きまくったのです。その本を、2冊か3冊ぐらい書いています。
戦争が終わったらすぐ出版するという手はずまで整えたのです。そのために、近衞は「平和主義者」であったと今もなお、そのような印象操作が続いてます。
「平和主義者」という流れになった近衞文麿は、は「皇室の藩屏」だったとか、「優柔不断」だったとか、そして近衞文麿は「平和主義者」だったと書かれているのが現代の本の主流です。これは全て間違いです。「平和主義者」ではなかったのです。
近衞と国際金融資本の目的が一緒
特に、近衞に関する本の中では、日米交渉が挙げられます。しかしこれは最初から、からくりがあるのです。日米交渉において、とにかく松岡 洋右が牛耳っている外務省ルートを使いませんでした。
松岡 洋右に牛耳られたら、本当に日本の国益を考えて行動してしまいます。ルーズベルトも一緒です。ルーズベルトも日米は「グズグズ」にしておいて、日本を追い込み、戦争に持っていきたいと考えていました。近衞とルーズベルトは、同床異夢(どうしょういむ:同じ床に枕を並べて寝ながら、それぞれ違った夢を見ること)ですが、目的は一緒でした。手段も一緒です。
おそらく、二人で打ち合わせをしていないと思いますが、同床異夢であっても目的は一緒で、手法もぴったり一緒でした。その証拠に、昭和16年に入ってからか、クーン・ローブ商会(ロスチャイルドのアメリカの代理人の大銀行、グローバルな金融財閥。1867年に創業、ニューヨークに本部を置いた)は、日露戦争に日本に融資しました。
クーン・ローブ商会は、ロシアにも融資していましたが、このクーン・ローブ商会の代理人のキリスト教の宣教師が日米和平交渉と称して来日します。
それは、私設団です。とにかく、外務省にタッチさせない方針です。日本の外務省には、松岡がいます。しかし、日本は、それを受け入れてしまいます。それを受けたのが近衞文麿の親友で井川氏でした。大蔵省出身の方です。この方は何と昭和研究会の設立メンバーです。
昭和研究会は、近衛文麿の私的ブレーントラスト。主宰者は近衛のブレーンの一人だった後藤隆之助。1933年12月27日設立 – 1940年11月19日廃止。ただし、正式な組織として発足手続が取られたのは1936年11月に入ってからである。ウキペディア:最終更新 2021年10月2日 (土) 14:09
近衞路線です。昭和研究会というのは、蠟山政道が、全部仕切ったアメリカ共産党の様な団体です。クーン・ローブ商会からの使者と井川氏で始めたのが日米交渉でした。
日本の国益を考えなかった近衞
結局、「だらだら」やって、あえて、海軍大将の野村吉三郎氏を駐米大使にするのです。この人は、海軍大将でアメリカに通じていますが、あまり英語が堪能ではなかった様です。軍人として、出世してきたので、切った貼ったの騙し合いの世界は想像もできません。
その様な人を噛み込ませて、外務省の大使会員をあまりタッチさせなかったのです。だから上手くこの心理作戦を計画しました。これが、外務省の人たちも背を向ける理由でした。
「俺たちに内緒で何やってるのか」とういう日米交渉の中で、野村氏が勘違いをして、これはアメリカの真意ではなく日本に都合がいい4原則のような事柄を送ってきました。
それは、現状維持的なアメリカは、蒋介石と日本の仲介を取り持つことをする様な日米和平案の様なものでした。日本の陸軍もこれでアメリカと戦争にならないことで大喜びしました。しかし、外務省の本格的なルートで仕掛けてきたものではないのでいい加減です。アメリカは偽玉を投げてきただけでした。
偽の交渉を整えたのはルーズベルトあるいはクン・ローブであると近衞は知っている様でした。そこで偽の交渉を行なっていることを知った松岡洋右は激怒したのです。
近衞は、松岡の行動を全部徹底的に潰しました。松岡洋右が本格的に動き始めるようになったら、北進論が展開されてしまいます。松岡だけを外して内閣改造で替えてしまうことにしました。
近衞文麿はこの日米交渉を指して「平和主義者」だと言う人がいますが、それはよく見てないのです。「平和主義者」ではありません。
以上の結論を踏まえると、近衛文麿は「愛国者」でもありませんでした。近衛文麿は「皇室の藩屏」ではなく、「優柔不断」でもなく「平和主義者」でもありませんでした。これはしたたかな「藤原主義者」だったのです。
自民党の幹部のあの人は「皇室の藩屏」ではなく、「優柔不断」でもなく「平和主義者」でもなく、そして「愛国者」でもありませんでした。
彼らは、したたかな「中共主義者」です。共産中国共産主義者だと言えるのでしょう。
近衞の任期いっぱである昭和16年の10月に突然辞め、全部放り投げ、東条英機に押し付けました。自分は平和主義者と和平交渉の努力をした近衞文麿として歴史に残そうしたとのです。
参考文献:ユーチューブ、結局、近衛文麿という男は何だったのか?【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第21回】
<https://www.youtube.com/watch?v=aNkfgFqWj34>アクセス日:2021年11月6日
まとめ
近衞文麿と金融資本の目的が偶然一緒だった。それは日本の國體をなくすことだった。近衞は金融資本を利用して藤原世を日本につくろうとしたが、逆に利用されてしまった。
先のブログ都市伝説では、ネピルム(藤原)が日本を支配し、世界を同じようにネピルム(国際金融資本)が支配している構図でした。平和な人類に争いをもたらしたのは何者かが見えてきます。