古代ユダヤ人たちは3度日本に来ていた

古代ユダヤ人たちは3度日本に来ていた

この記事の概要

古代ユダヤ人たちは3度日本に来ていたのです。古代ユダヤ人が捕囚されスキタイによって関東に連れてこられた一団がありました。船で黒潮に乗って淡路島に到着し後に古事記を編纂した一団もありました。紀元後300年ごろの古代ユダヤのグループは、シルクロードを通って、中国経由で日本に来ています。


クリシド神社

徳島県の東祖谷(いや)の八幡神社の横のところに、由来が書います。元々の呼び名は、栗枝渡です。栗枝渡(クリシド)神社です。ギリシャ語でキリストです。救世主です。これをヘブライ語で言うと「ヘシャハ」と言います。

日本語ではメシアと言いますが、どうして栗枝渡(クリシド)神社と書いてあるのでしょうか。

明智光秀が槍で突かれ絶命したとされる場所が、小栗栖(おぐるす )とされています。京都と大阪の間に天下分け目の天王山があります。あの裾のところに小栗栖(おぐるす )があります。そこで農民に明智光秀が槍で突かれたとされています。

そこは「クルス」と書いています。いろいろなところにそのような地名があります。全てキリストと関係があるのです。

何故かというとキリスト教由来の名前では、弾圧されてしまうので名前を変えてしまったのです。隠れキリシタンもいましたが、それよりも前にキリストを信じたユダヤ人たちがこの地に来ていました。

その東祖谷の八幡神社には、天皇と同じ16菊花紋あります。瓦も全部16紋です。


古事記は古代ユダヤ人が受け継いだ話

古代ユダヤ人は、3回にわたって日本に来ていました。紀元前700年ごろ、この時はユダヤが北イスラエルの十支族と、南ユダ王朝の二支族に分かれていました。

北王朝はアッシリアに連れて行かれて、後にスキタイが日本の関東に連れてきました。そこで関東に定着したのです。

スキタイは紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その地をスキュティア、スキティアと呼ぶ。

ウキペディア:最終更新 2021年9月29日 (水) 08:43

それと同じ頃には、契約の箱を持って、イザヤ一行が、古代ユダヤの地を出発しました。なので、イザナギ、イザナミが古事記には登場します。

古事記とは他民族の事柄を集めたものです。古代ユダヤや他民族のものを寄せ集めています。イザナギ、イザナミの夫婦が最初に創ったところは淡路島でした。二番目に創ったのは四国です。順に、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州、他の島々を生みました。

彼らはこの時、契約の箱を黒潮に乗って船で運んできました。その黒潮の流れが、紀伊水道でぶつかります。(黒潮は、日本の南岸に沿って流れる非常に強い海流です。それは、亜熱帯循環と呼ば れる時計回りの環流の一部です。 )

そこで、黒潮から外れたので、四国と和歌山の間から淡路島に辿り着きます。(今淡路島は兵庫県ですけれども、明治の初めまで阿波は徳島県でした。お家騒動があて兵庫県に行ってしまったのです。)

淡路島は淡への道です。古代ユダヤ人たちが来て、剣山に契約の箱を納めたのです。一番初めは淡路島で次は四国でした。淡路一宮、伊射奈岐神社があります。そこに漂着したはずです。それから彼らは四国に行きます。


京都平安京

紀元後300年ごろの古代ユダヤのグループは、シルクロードを通って、中国経由で日本に来ています。長安という唐の都を見ています。長安を通って国東半島に上陸して太秦に行くわけです。

そこで京都に到着します。京都は長安の都を真似ています。もう一つはエルサレムです。平安の都です。エルサレムは平安の都でエルシャライムと言います。日本語にして平安京です。

京都に定住した古代ユダヤ人である秦氏たちは、桓武天皇たちに追われてしまいます。それを画策したのは弘法大師です。弘法大師は長安で、秦氏たちすなわち古代ユダヤの人たちと接触していました。

彼はその手の内を全部わかって、桓武天皇側について、古代ユダヤ人たちが築いた平安の都を追い出したのです。その代わり、弘法大師は、東寺を貰い受けました。弘法大師は、政治家でもあります。

平安京は秦氏が造り、後に、桓武天皇のものになりました。大内裏は天皇の居住地で、そこから朱雀大路が延びています。元々、鴨川は、京都の中を流れていましたが、治水により今の鴨川に付け替えました。約2000年年前ですから、京都盆地は湿地帯でしたので大工事でした。

鴨川を見たらわかるように間に堰があります。小さなダムです。あれで横に水を引いたのです。京都嵐山のところに行っても、大きな堰が作ってあり、ボートを浮かべることができます。

あれはダムを作って遊ぶためのものではなくて、田圃や畑のために水をやるためのものです。全て秦氏が行いました。古代ユダヤによる大工事です。京都の水を鴨川に流して、干したのです。

さらに綺麗に掘って、堀川を引きました。東堀川と西堀川です。1丈は約3メートル、鴨川から東堀川まで588丈、東堀川から西堀川まで588丈、西堀川から御室川までが588丈です。みんな綺麗になっています。

古代ユダヤの人々がどこにいたかというと八坂神社です。四国剣山にあった契約の箱を願わくば、八坂神社に持って行こうとしたのです。そのために綺麗に整えたのです。

八坂神社のお祭りで、7月17日に行うのは祇園祭です。7月17日に剣山の頂上で行うお祭りも神輿を担いで行います。7月17日は難を逃れてノアがアララテ山に漂着したのがその日です。それを記念して京都では祇園祭をします。剣山の山頂では、7月17日に神輿を出すのです。


参考文献:ユーチューブ、宇野正美 平安の都という話

<https://www.youtube.com/watch?v=Zgd54AYLePY&list=WL&index=43>アクセス日:2021年11月1日


まとめ

失われた十支族とされる一団は日本に来ていたのです。その他にも、紀元後には、イエスをキリストと信じた古代ユダヤ人たちも日本に秦氏として来ています。


紹介欄

京都はユダヤ人秦氏がつくった

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