江戸末期の大地震は人工地震だった

江戸末期の大地震は人工地震だった

この記事の概要

江戸末期の大地震は人工地震だったと考えられます。江戸時代安政年間にはマグネチュード7クラスの地震が続発しています。「『安政の大地震』はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった」と記されているほど政治的な意味合いがあります。人工地震装置は古くから存在していたと考えられるようです。


安政年間の大地震が続発

江戸時代安政年間少し前の1847年からマグネチュード7クラスの地震が続発しています。ウキペディアを見てみると下記の通りになります。新たに、地震の規模を示すマグネチュードや震度、被害規模などを加えました。

「安政の大地震」はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった

安政以前

  • 1847年5月8日(弘化4年3月24日)- 善光寺地震。地震の種類: 直下型地震(逆断層型)最大震度: 震度7:長野県北部など(推定)被害地域: 日本 甲信越地方など死傷者数: 死者8000-12000人
  • 1853年3月11日(嘉永6年2月2日)- 小田原地震。被害地域: 日本 神奈川県西部(小田原市など)最大震度: 震度7:神奈川県小田原市など
  • 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)- ペリー来航。浦賀沖。
  • 1853年8月22日(嘉永6年7月18日)- プチャーチン来航。長崎。
安政年間

  • 1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
  • 1854年5月2日(嘉永7年4月6日)- 京都大火。禁裏より出火、炎上。
  • 1854年5月17日-(嘉永7年4月21日-)- 下田了仙寺対談。マシュー・ペリーと幕府側との通貨交換率の交渉。
  • 1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。三重県,滋賀県、京都府そして奈良県の県境を震源として発生した地震の規模は M7。
  • 1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。津波でディアナ号遭難。津波: 太平洋沿岸、特に熊野灘、最大22.7m、地震の種類: 海溝型地震; 逆断層型、最大震度: 震度7:甲斐甲西、駿河相良、遠江袋井、死傷者数: 死者2,000~3,000人と推定されている発生時刻: 9時15分頃(日本標準時)、被害地域: 畿内、東海道、北陸道、東山道。
  • 1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。津波: 太平洋沿岸、特に紀伊水道、土佐湾。最大16.1m、最大震度: 震度6:-7: 紀伊新宮、土佐中村、死傷者数: 死者 数千人と思われる。発生時刻: 16時半頃(日本標準時)、被害地域: 畿内、山陰道、山陽道、南海道、西海道、規模: M8.4, Mw8.5 -8.7。
  • 1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。豊予海峡を震源として発生したマグニチュード(M)7.4の地震である。豊予地震、豊予大地震とも呼ばれる。
  • 1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。曳航中ディアナ号座礁。4日後に沈没。
  • 1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
  • 1855年3月18日(安政2年2月1日)- 飛騨地震。飛騨国白川郷を震源に発生した直下型地震。M6.8。
  • 1855年9月13日(安政2年8月3日)- 陸前で地震。
  • 1855年11月7日(安政2年9月28日)- 遠州灘で地震。東海地震の最大余震。震央は荒川河口付近で、規模はM6.9と推定される直下地震であった。江戸の町方での倒壊した家屋は1万6000。
  • 1855年11月11日(安政2年10月2日)- 安政江戸地震。藤田東湖・戸田蓬軒圧死。最大震度: 震度6:江戸、死傷者数: 死者4000人余-1万余発生時刻: 午後10時(日本標準時)、規模: マグニチュード 6.9-7.4
  • 1856年8月21日(安政3年7月21日)- ハリス下田に総領事として着任。
  • 1856年8月23日(安政3年7月23日)- 安政八戸沖地震(巨大地震)震央は北緯41.0度 東経142.3度、地震の規模はM7.5と推定されている。
  • 1856年10月7日(安政3年9月9日)- 下田御用所にてハリスと幕府側との通貨交換率の交渉。
  • 1856年11月4日(安政3年10月7日)- 江戸で地震。
  • 1857年7月14日(安政4年閏5月23日)- 駿河で地震。
  • 1857年10月12日(安政4年8月25日)- 伊予・安芸で地震(芸予地震[28])。
  • 1857年12月20日(安政4年11月5日)- 吉田松陰が松下村塾を引き継ぐ。
  • 1858年4月9日(安政5年2月26日)- 飛越地震。越中・飛騨国境の跡津川断層を震源に発生したM7.0 – 7.1と推定される地震。
  • 1858年7月8日(安政5年5月28日)- 八戸沖で地震。
  • 1858年7月29日(安政5年6月19日)- 日米修好通商条約締結。続いて蘭、露、英、仏と五カ国条約。
  • 1858年10月11日-(安政5年9月5日-)- 安政の大獄が始まる。
  • 1859年1月5日(安政5年12月2日)- 石見で地震。
  • 1859年7月1日(安政6年6月2日)- 横浜港・函館港・長崎港開港。幕末の通貨問題。
  • 1859年10月4日(安政6年9月9日)- 石見で地震。
  • 1860年3月24日(安政7年3月3日)- 桜田門外の変。井伊直弼が暗殺される。
安政以後

  • 1867年11月9日(慶応3年10月14日)- 大政奉還。
  • 1868年4月5日-(慶応4年3月13日-)- 勝・西郷会談。江戸開城。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年7月8日 (金) 21:36での最新版を取得。

この安政年間にこれだけの地震が起こっています。しかも太文字で記された地震はマグネチュード7クラスの大地震です。中にはマグネチュード8クラスの巨大地震も起こっています。わずか10年でこれだけの大地震が江戸末期に起こっていたのです。

その中でも安政の大地震が非常に大きなものでした。東海地震マグネチュード8.4、1854年11月4日に発生、死者2千人から3千人だったと言われています。

その32時間後には、安政南海地震が発生しました。マグネチュード8.4、震度6から7、死者数千人に登ったと言われています。この二つの地震が、南海トラフ巨大地震として扱われています。近年騒がれている南海トラフ地震がこの時代に起こっていたのです。

1年後の1855年11月11日に、安政江戸地震が発生、マグネチュード7.4、震度6、死者4千人から1万人と言われています。

「『安政の大地震』はこのような幕末の多難な状況下で討幕運動に呼応するかの如く連発した大地震であった」とウキペディアに記されています。さらに、ご丁寧に年表までが載っています。起こった地震と政治的な出来事が書かれています。ペリー来航、プチャーチン来航、政治的な出来事が交互に書かれています。

地震だけのことを表記するのであれば地震を羅列すればいいのですが、政治的な事柄と関連があるようにウキペディアに記されています。わざわざ「倒幕運動に呼応するかの如く」と書かなくてもいいと思いますが、その様な紹介の仕方がされています。

この様に仄めかすのは、あまりにもこれらの大地震はタイミング良く起こっているので、実は「人為的に地震を引き起こした」とも考えられます。この時代に、人工地震が起こせたのでしょうか。

そこは、マッドフラッド的な思考を持って考察できるならば、「起こせた」と思えるはずです。

ディアナ号で来航したプチャーチンは安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田で幕府と会見し、下田が安全な港でないことを力説し、代港を強く求めました。

ディアナ号は11月4日、安政東海地震による津波で大破・沈没しました。東海地震と津波で荒廃した下田はその後、復興を遂げて長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となっています。

この地震は、タイミング良く大地震が起こって、物語が展開していく流という印象を受けてしまいます。この年表を見ると人工地震という発想が浮かんでまいります。


人工地震

人工地震発生器は、ニコラ・テスラが1893年に特許を取得し、その5年後に実用化されています。安政年間に地震が頻繁に起きた幕末の後で、まだ人工地震は実用化されていませんでした。

一説によりますと、地中のエネルギーが溜まって揺れという形で放出される自然地震は、マグネチュード6程度が限界だと言われています。マグネチュード7以上の街を崩壊させるほどの大地震は自然界には存在しないようなのです。

その人工地震発生装置とは、テスラオシレーターといいます。このマシンは、物理的な対象物を前後に振動させて、さまざまな周波数を作り出すバルブシステムを利用して、受信デバイスが発生した機械的振動を電流に変換する仕組みだと考えられている。

この装置をテスラはニューヨークのあるビルで発動させました。そうしたところ、たちまち揺れがどんどん大きくなってしまい、このままではニューヨークが壊滅すると思えたほどです。そこでテスラは、慌てて装置を壊し、二度と同じものを作らなかったとのことです。

この装置にはいくつかのバージョンがあります。

  • 蒸気をオシレーターに吹き込み、超高速の激しい振動でエネルギーを生み出し一連のピストン運動の動力を供給する。
  • 空気圧縮機やボンベ入りガスを使うタイプ。
  • 電磁石を使って、オシレーターの周波数を調整するもの。
  • 地中の岩にエネルギーを送って振動させ、そのエネルギーをもうひとつのデバイスに転送して電気に変換するもの(テレジオダイナミックス)。

これらの機器はすべて、基本的にシリンダー内でピストンの摩擦なしに振動させる原理ででした。驚くことに、テスラはこの装置を小型化し、ポケットサイズで持ち運びができるようにする予定だったというのです。


音響兵器

小型化ができる予定だったということは、その装置が実現可能だったということです。となると、音響兵器のような隠されたテクノロジーの存在も考えられます。このような古代から音というものは兵器として存在し実用化されていたと考えられます。

音響兵器のようなテクノロジーが存在したのであれば既に地震兵器が存在しても不思議ではありません。

古くから存在するさまざまな資料を考察していくと、古代・前文明の方が兵器の関する技術に優れていたようです。現代人が知らない多くのテクノロジーが存在していたに違いないと考えられます。

ニコラ・テスラが地震兵器を発明する前にも、それ以上のものが存在していたとしても何ら不思議なことではありません。その意味において、安政の大地震に使用されたとも考えられます。ちなみに、関東大震災は震度7が立て続けに3度起きました。先に述べたように、震度7以上の地震は自然界には存在しません。

ニコラ・テスラの装置の技術は筒抜けで他に渡っていて関東大震災に使用されたという噂もあります。

地震兵器とは音響兵器の応用なのではないでしょうか。爆破による人工地震を起こすのではなく、音などの波動や信号によって増幅させて発生させる装置が存在したのではないでしょうか。

例えば、大きなスピーカーではハウリングなどで音だけがとても大きいものに増幅されてしまうことがあります。

その時に周りがグラグラと揺れ始めました。その感じは地震の発生ととても似ています。また低い音の発生は地震の発生と非常に似ています。小さな機材で大きな振動を発生させてしまうのであれば、音によって地震を発生することが可能に思えてきます。

現在の状況が、江戸末期と最近の状況が非常に似ています。震度5強以上が1919年から2021年までで152回あります。そのうち140回がここ30年ほどです。1992年から一切の人工地震報道記事が新聞報道から消えています。それまでは人工地震については普通にありました。1992年以降に大きな地震が多発しています。

この人工地震と思える地震は文明リセットを企むドン深闇の者たちの仕業なのでしょうか。


URL<https://www.youtube.com/watch?v=HNeK3cd3bzw>アクセス日:2022年8月26日


まとめ

人工地震装置は太古から存在していた。自然地震はM6程度で、M7以上の災害をもたらすものは人工地震と考えられる。


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地球は乗っ取られている。それも、私たちが、神だと信じている存在によって。「聖典をかける少女」によりますと、創世記がどのように、誰によって書かれたか説明されています。「プレアデス+かく語りき」がモチーフになっているようですが、地球は、30万年前に聖書に登場する創造神たちによって乗っ取られていることが理解できます。

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