この記事の概要
古代は月の時代があり今も隠された月信仰があるのです。令和は今まで隠されてきた月の時代の始まりです。陰陽師のシンボルマークの陰陽は、陰という言葉の方が先に来ています。なぜ、陰の方先に来ているのでしょうか。それは、万物は闇がなければ生まれないからなのです。確かに聖書では、「光あれ」と記述されています。それは闇が先だからです。
隠された月信仰
国旗の多くは、太陽と月と星が描かれています。日本の国旗には、太陽の象徴である日の丸が描かれていますが、太陽に対する思いが強いように思えます。日本人の月に対する思いはどうでしょうか。日本にも、月見という言葉があるように、昔から月を大事にする風習はありました。
歌手の杏里さんが歌った「夏の月」には、「月だけが知っていた」と歌われています。夏の蒸し暑い青白い月明かりの下では、「月が何もかもお見通し」といった感性です。「朧月夜」は、近代日本語として最も美しい唄だと言われています。昔から、月に対する畏敬の念が日本人には、あると思います。
「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す」この令和の元号のもとになった歌にも「月」があります。
この和歌を書いたのは、大伴旅人とも山上憶良ともいわれています。他の人ともいわれていますが、歴史上作者不明となっています。しかしながら、この歌が発想された場は判明しています。天平2年(730年)正月13日に大宰府の長官ともいえる大宰帥の大伴旅人の家に集まり、梅を楽しんだ際に生まれたとされているのです。
日本には、隠された月信仰があります。古代から現在に至るまで、日本は、太陽派閥対月派閥との争いでした。
太陽信仰は、日出国や日の丸、天照大神が、日本人にとって浸透しているのでよく理解できます。それでは、月信仰とは何でしょうか。すべては月信仰から始まりましたが、全ては、消されたのではないかという仮説があります。
竹内文書は月信仰の鍵
月信仰の謎を解くために参考になるのが、竹内文書です。この書物は、古事記や日本書紀で書かれた歴史よりもさらに古い天皇の歴史が書かれた歴史書です。この歴史書によりますと、日本国は、古代の世界では、太陽と月の二つの勢力に分かれていたことが書かれています。
しかしながら、竹内文書は、日本政府が偽書として認定しています。荒唐無稽な書物で、事実ではないということです。荒唐無稽な内容の中に真実を隠し、焚書されずに存続させてきたのではないかと思います。
人類は古くから太陽や月を神聖なものとして崇めてきました。つまり太陽に重点を置いて国造りをしていた地域を太陽の王国、月に重点を置いて国造りをしていた地域を月の王国とすると、太陽と月の勢力があったことは、本当なのかもしれません。
太陽暦と太陰暦
太陽の王国と月の王国の大きな違いとはなんでしょうか。その大きな一つの基準は、時間の測り方です。暦によって季節を正確に管理することです。農耕、獲物の移動のタイミング、季節の変化などは、暦を見れば理解できるようになっているのではないでしょうか。これが生きていくために必要な年間の計画表なのです。
暦には、太陽に重点を置いた太陽暦、月に重点を置いた太陰暦があります。この二つの暦の歴史は古く、太陽暦の始まりは、紀元前3000年頃です。それは、古代のエジプトそして人類最古の暦法と言われているのです。
太陰暦の始まりは、古来メソポタミアだと言われています。普通に考えると、太陽の王国の方が早く始まった気がします。古代の世界では、月の王国ができてその後に、太陽の王国ができたと言われています。
陰陽師のシンボルマークの陰陽は、陰という言葉の方が先に来ています。なぜ、陰の方先に来ているのでしょうか。それは、万物は闇がなければ生まれないからなのです。確かに聖書では、「光あれ」と記述されています。それは闇が先だからです。
現代日本は太陽王国
日本は太陽の王国、月の王国のどちらでしょうか。中国の歴史書、随書によりますと、日出処の天子と書かれています。確かに日本は、太陽神である天照大神神が最高神であり、古事記も日本書紀も天皇家は、太陽神である天照大神の末裔ということになっています。
一方で、月の神である月詠(ツクヨミ)は、ほとんど神話に登場していません。重視されて来なかったようなのです。日本は太陽王国です。国旗にもは、日の丸が描かれ、グレゴリオ暦という太陽暦も使われています。
月の時代
実は、縄文人は月を信仰していたと言われています。それはなぜかというと月の満ち欠けと女性の生理の周期が重なったり、欠けた月が満ちる様子は再生とか性を象徴していると受け取ったからなのです。
月信仰は、古事記・日本書紀が成立する700年代には切り捨てられていきます。おそらくこの頃の天皇家は、太陽を信仰する太陽派閥だったと思われています。
そのように考察してみますと、初代天皇とされる神武天皇が、太陽神である天照大神の末裔であることからも、月の神様である月詠(ツクヨミ)がほとんど登場していないもの理解できます。
月派の人たちは、その後本当に消えてしまったのでしょうか。日本最古の物語である竹取物語には、かぐや姫という月を象徴する登場人物が出てきます。
この物語からも理解できる通りに、月派の人たちはそれ以後も生き残り続けたようなのです。権力は、太陽派の人間が握っていましたが、月派の人も一緒に共存していました。
実際太陽暦が使用されるのは、明治時代からです。特に徳川家康は、「太陰暦を重宝した」と言われています。興味深いのは、徳川家康の天下の時代である江戸時代には、歴代天皇全員が、月輪陵(つきのわりょう)という墓地に埋葬されているのです。
徳川家康と月派の人々は、深い関係があったに違いありません。
太陽の子は、日本だけではありません。同じ派閥は、国境を越えて協力関係になる傾向があります。例えば、安土桃山時代の織田信長も太陽信仰であり、直接天照を信仰していたという説があります。織田信長に近づいてきた人物が宣教師フランシスコ・ザビエルです。ザビエルが所属するイエズス会のシンボルマークも、太陽を象徴するマークです。(写真)
偶然にもこのシンボルマークの周りにある太陽のプロミネンスに当たるあの尖っている部分は、16本です。波打ってる部分も16本で、計32もあります。
こちらが日本の太陽信仰のシンボルマークいわゆる菊の御紋です。(写真、)内側の花びらが16枚、外側も16前、合計32枚です。これは、本当に偶然なのでしょうか。
一つ確かなことは、織田信長もフランシスコ・ザビエルも同じ太陽を神聖なものとする人物です。その理由で彼らは手を組むようになったのではないかと推測できます。
しかしその後の徳川家康は、キリスト教を禁止させ、天皇は月輪陵(つきのわりょう)へ変遷します。そう考えていくと、日本という国は太陽派閥の人と月派閥の人が時に手を組んだり、争ったりしながら歩んできた歴史が見えてきます。