この記事の概要
ネストリウス派
秦氏とは、中国の秦から多くの人々が渡来して秦氏になったということや、京都に木嶋坐天照御霊神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)があり、そこが蚕の社のところの近くだったことであったり、ネストリウス派のキリスト教と原始キリスト教を持ってきたということが言われています。
(「蚕の社(かいこのやしろ)」や「木嶋神社」とも呼ばれます。その名の由来は、境内に蚕をまつる「養蚕神社」があるためと言われています。渡来人の秦氏が養蚕と織物の神を祀ったのがはじまりと伝えられています。)AIによる抽出
(景教(けいきょう)は、ネストリウス派キリスト教の中国での呼称です。中国語で「光の信仰」という意味で、景教教会は「波斯(ペルシア)寺」や「大秦寺」などと呼ばれました。景教は、431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派のキリスト教です。)
景教とは
蚕の社の案内板の一番最後のところに、三柱鳥居の解説の最後の行に「一説には景教(キリスト教の一派ネストル教1300年前に日本に伝わる)と記されています。
そこでは、「景教」ということですが、特にクリスチャンの方々は「景教」と決めつけていますが、景教ではありません。ネストリウス派とは、5世紀に行われたカルケドン公会議によって、追放されてアジアに来たキリスト教の一派になります。
(カルケドン公会議は、451年10月8日から11月1日まで小アジアのカルケドンで開催されたキリスト教の公会議です。東ローマ皇帝マルキアヌスによって招集されました。カルケドン公会議で作成された「カルケドン定式(信条)」は、キリストには神性しかないというそれまでの異端的単性説を論難して、神人二性と一人格を強調したものです。)
それ以前にも、単性教(単性説)シリア教会だとかいわゆる原子キリスト教一派はもう日本に来ています。かなり早い段階で、一世紀の段階で来ていたのです。一世紀の段階でアジア、インド、それから中国に来ているということは、これは十二使徒の時代なのです。だからもう全然違います。
(単性教(たんせいきょう)とは、キリスト教におけるキリスト論用語で、受肉したイエス・キリストが単一の性(natura)のみを有するという説です。単性説(たんせいせつ)、単性論(たんせいろん)とも呼ばれます。単性説は、キリストの神性を特に強調する説で、キリストに神性だけを認める教説です。カルケドン公会議で異端とされました。)
渡来した秦氏は原始キリスト教徒
一番最初に秦氏が渡来人でキリスト教徒ではないのかと言ったのは、東京理科大学の佐伯好郎先生です。
「太秦(禹豆麻佐)を論ずる」という論文の中で、その後、年代が合わないので、最近その一番最後の論文というのがあり、この「弓月君のルーツである弓月国」というちょっと長いタイトルですが、これが遺稿だったのです。
「景教ではない」と。「原始キリスト教に相違ない」と。これが原始キリスト教となると、とんでもないことになります。
我々が認識している原始キリスト教の教えというのは、今日伝わっていないのです。カトリックも教えていません。ロシア正教会も教えていません。何故だと思いますか?そこが重要なのです。
イエスというのは、ユダヤ人なのです。 母マリヤもユダヤ人、父ヨセフもユダヤ人でどちらの両親もユダヤ人です。子供は、母親の遺伝子なのでユダヤ人です。大前提としてユダヤ教徒なのです。
原始キリスト教には2系統ある
一方パウロの方は、パウロの一番弟子は、ルカです。彼はお医者さんであり、ルカによる福音書で有名です。彼はギリシャ人でユダヤ人ではありません。
パウロはその後アンティオキア、シリア、トルコの方にどんどん伝道して、最終的にはヨーロッパに伝えて行きます。これがカトリックそれから正教の流れなのです。
ペテロも伝道をし殉教します。殉教した後十二使徒の教団を率いたのはイエスの弟です。そのことは聖書にも出てきます。ヤコブという弟がいました。ヤコブがユダヤ人の一派を率いたのです。
この一派は、起源66年に勃発した第一次ユダヤ戦争の時に、エルサレムから消えたのです。ユダヤ人が皆蜂起してローマにボコボコにやられてしまいました。
この時彼らは、ヨルダウン川の東ペラというとこに移住して、そのまま消えてしまいます。彼らは、ずっとヘブライ語ないしはシリア語系のアラム語を話していました。パウロが伝えたギリシャ語とは言語が違うのです。
パウロはもちろんアラム語が話せましたが、基本的にはこの地中海からヨーロッパは、当時の公用語であるコイネーギリシャなのです。(コイネー(κοινη)はギリシャ語で「共通の」という意味)
ギリシャ語だからギリシャ正教会なのです。さらに言えば、ラテン語でカトリックとなります。本来のアラム、ヘブライ語でないと分からないことがいっぱいあります。
ヘブライ語で読まないと意味がない
特に旧約聖書はヘブライ語で読まなければ何の意味もありません。ユダヤ人が一般のクリスチャンに対して、上から目線になるのがここなのです。
翻訳された聖書なので本当の意味を読み込めていないのです。例えば、創世記の一番最初にはアダムは、日本語では「神は塵から人を造った」と記されています。塵とはゴミみたいな感じがしますが、これはさらに突き止めていうと「土からアダムを造った」、もっと 直訳すると、赤土からアダムを造ったことになります。黒土ではないのです。ここが大事です。
赤土のことアダマーと言います。アダマーから造ったからアダムなのです。これは赤です。アダムは赤ちゃんです。日本では埴輪です。
埴輪の埴とは赤土なのです。繋がってくるのです。ちゃんと見えて来ます。そのようなつながりが、ヘブライ語ないしアラム語でしっかりと読まなければ、分からないのです。
このヘブライ語で理解している一派がいなくなったのです。それは紀元1世紀。 彼らはエルサレムには帰ることができません。なぜならば、戦争でローマにボコボコにやられてしまったからです。
帰るわけがないのです。しかも、戦争から逃げ出したのです。他のユダヤ人からも「裏切り者だ」と言われます。 カトリックは、ペテロの後に戻ってきてなんか成功するとか言っていますが、そんなわけがありません。その時点で嘘をついているのです。
中国に行った原始キリスト教徒
このヘブライ語で理解している原始キリスト教の一派はどこへ行ったのでしょうか。中国です。中国に来ていました。彼らはクリスチャンとは言いません。
キリスト教徒という言葉もないのです。ユダヤ人でさえも、中国行くと勝手に名前を付けられます。そうすると「お前たちどこから来た?」と聞かれ、「ローマから来ました」と答えると、「大秦」大きな秦と書く名前がつけられてしまいます。そうすると、その一字を取るのです。(大秦(だいしん)は、中国の史書に記載されている国名で、ローマ帝国、のち東ローマ帝国のことを指すとされる。)
「大」を選ぶと、大華や大連があるので分かりづらくなります。それで「秦」の方を選びます。その「秦」を選んで苗字、姓にしたのです。でも彼らは自分たちのことをユダヤ人だと言っています。
これはヘブライ語でイェフダーと言います。イェフダーと名乗って秦と書くのです。
日本に渡来した秦氏
これが 朝鮮半島に入って、日本に来たのです。だから他の秦を名乗る人たちは今でも、例えば朝鮮にもいます。それから一番多いのは済州島です。もちろん北朝鮮にもおり、中国にもいます。
彼らはみんな「シン」、「チン」、「ジン」と言います。ハタとは名乗っていません。ここが重要なのです。ここが重要です。魏志倭人伝には、卑弥呼と邪馬台国が描かれている中国の書があります。
その中でも魏志 韓伝 東夷伝の中に韓伝というのがあり、 その中に朝鮮半島に「秦の人と書いた秦人が大量にやって来た」と書いてあります。
それまで住んでいた人たちが、大量にやって来た秦人の風俗風習が違うので忌み嫌ったのです。朝鮮半島の東側が後の新羅で、ここに住んでいた秦人たちが「スルッ」と日本に来たのです。
もう分かっているのです。彼らはユダヤ人なのです。ここが基本です。だから、景教とか言っていたら「何言っちゃっているの」と言われてしまいます。景教はその後に来たのです。 しかも大秦景教流行碑というのは、唐の時代781年に建っているのです。
中国に使徒が来ていた
もともとはローマです。同じでもいいのですが、唐の時代には、ローマに読み方が変わっていたのです。
だからあくまでも大秦と呼んでいました。 例えば1世紀、2世紀の特に、中国で言う後漢の時代に使徒が来ていたのです。ローマから海から来ていたのです。マルクス・アウレリウス・アントニス((121年4月26日 – 180年3月17日)は、ローマ帝国の第16代皇帝)の使者が来ているのです。その時は大秦と言っていました。
日本には多くの地域から外国人が来た
結局秦とはどういうことなのでしょうか。中国の歴代王朝には、秦の始皇帝の秦帝国以外に、後の時代になって、五胡十六国とかそのような時代に前秦、後秦、西秦と3つの秦という国があり、いずれも 鮮卑、匈奴、低とは違うのです。
(五胡十六国とは、中国の晋末から南北朝時代が始まるまでの時期に、華北に興亡した五胡と漢人の建てた王朝およびその時代の総称。五胡とは、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、羯(けつ)、氐(てい)、羌(きょう)の5つの異民族の総称です。十六国は、五胡と漢人の建てた19国のうちの主な16国を指します。五胡十六国時代は、三世紀末から五世紀半ばにかけての時期)
漢民族ではないのです。漢民族ではない国が建てた五胡十六国はそのままですが、秦の始皇帝も漢民族ではないのはあたり前です。だから系図を見て、無理矢理皇帝につなげてはいるのです。
だから春秋戦国時代を通じて秦の人たちというのは、諸侯の集まりに呼ばれていないのです。馬鹿にされているのです。その代わり遊牧民なので馬の扱いはうまいので「奴らに任せたんだ。全然違う扱い方が」と。彼らもイスラエル系の流れだからです。
秦とは全てユダヤ
「秦」とつくところを調べていくと、例えばペルシャの大秦があります。面白いのはグレコパクトリア(王国)も五経の中で大秦と言われているのです。
秦とつくところを抑えていくと、中にはダイレクトにイスラエルのことを大秦と言っているのです。「秦」とつくところは全部きれいにユダヤなのです。
span style=”font-size: 1.4rem;”>だから秦の人すなわち秦人が朝鮮半島から来たときに秦韓(辰韓)というのをつくりました。新羅の前身を秦韓(辰韓)と言います。彼らが日本の九州、現在の宇佐である豊国に来ました。後に豊前、豊後に分割されます。
随所倭国伝には、秦王国が遣隋使の裴世清という使者を遣わした時に、「豊国はすげえな」と報告報告しています。(随所倭国伝(ずいしょわこくでん)は、隋の歴史書『隋書』中の倭国に関する部分です。『隋書』は隋王朝の38年間の歴史を扱う正史)
ここにも「秦」という名を残しています。みんなきれいに足跡をつけているのです。宇佐神宮で祀られているのが応神天皇です。八幡大神
イヤハダ
古語拾遺(こごしゅうい)に載っている仁徳天皇陵の時代も「ハダ」なのでイヤハタとは、イヤハダなのです。 これがイヤハダからイェフダーになりました。ユダヤ人にはイヤハダと言えば通じます。逆にユダヤと言ったら何を言っているのかと通じないのです。
ヤマトとはユダヤ人
ユダヤ人には、イヤハダが通じます。あと ヤマトと言っても通じます。ヤマトとはユダヤ人のことだからです。ユダヤ人は自分たちのことを「イェフダー」と言いません。(「八幡」は元来、「矢羽田」と書き、それを「ヤハダ」と発音したことから、ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「ヤフダ」が語源)
ユダヤ人のことをヤマトと言います。神の民であるということです。ヤーとはヤハウェであり、ウマーというのが民というヘブライ語なのです。
ウマーというのが女性名詞です。女性名詞複数形というのがウマトと言います。ヤーウマトとからヤマトになったのです。世の中のハタが入っている苗字の人たちは、結構な割合で、自分たちはユダヤ人だということに自覚しているようです。