死海文書が明かすイエスの2度の空白の期間

死海文書が明かすイエスの2度の空白の期間

この記事の概要

死海文書が明かすイエスの2度の空白の期間はクムラン宗団のもとで修行を積んでいた可能性が高いと推測されています。クムラン宗団の規則と一致することが根拠となるのです。クムラン宗団の規則には12歳までは宗団の規則に従って生活し、21歳までは見習いとして修行を積み、入会資格を得た後、試験を受けて30歳までに一人前の宗団員となるというものがあります。


天才物理学者アインシュタインは神の存在を証明しようとした人物でした。人間が創造した神を信じないと語っています。この言葉には、「宗教は神の本質に触れていない」ことを指摘しているのです。神は実在しているが、われわれが知っている神とは本質が違うことを示しています。


死海文書が語る真実

神の存在を証明しようとした学者は何人もいます。数学的にも神の存在は証明されているのです。現代の科学とは無縁でも、もっと本質的なものを捉えていたであろう古代においても、神は認識されて、密かに何千年も受け継がれています。

その受け継がれている記録が死海文書です。そこには神の存在に対する真実が記されています。2021年には65年ぶりとなる死海文書の断片が発見され世界中の話題となりました。

その発見では世界最古とみられる1万年前の網籠やミイラが確認されています。1960年代の調査において、40体もの古代人の遺骨が発見されました。

それは紀元132年から135年の間にローマ帝国に抵抗したユダヤ人たちの反乱(バル・コクバの乱)で命を落としたユダヤ人の亡骸だと推測されました。

バル・コクバの乱は、2世紀にローマ帝国支配に対して起きたユダヤ属州での反乱であり、ユダヤ人側の指導者の名からこのように呼ばれる。 なお、66年からの反乱を「第一次ユダヤ戦争」とするのに対して、この戦争を「第二次ユダヤ戦争」と称することもある。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年2月7日 (月) 04:48での最新版を取得。

この反乱では結果的に50万人以上のユダヤ人が殺されました。この地域を逃げ延びた当時の人々は写本に何を託したかったのでしょうか。その思いを知ることには大きな価値があります。


クムラン宗団

現在の研究では死海文書の作成は今から2000年以上前だと考えられています。記録されている教義は、クムラン宗団という組織が写本を作成したと考えられています。

クムラン宗団(Qumran Community)は、死海文書が発見されたクムラン洞窟がある死海北端の位置にある遺跡キルベトクムランに生活の基盤を置いていました。そこでは、厳格な戒律と規則に従って共同生活を送っていたとされています。

その実態は古代ユダヤ教、エッセネ派の中核組織であったと考えられているのです。エッセネ派のルーツは、紀元前1370年頃のエジプトまでさかのぼると言われています。

イエス・キリストを神として崇拝が始まった過去2千年のキリストの時代より以前に、神についての概念などが記されているということになります。

死海文書を書いたクムラン宗団が、ナザレのイエスに神についての教えを説いたことが考えられます。つまりナザレのイエスは、神の子として生まれながらも自我は普通の人に近く修行と学びにより神の子としての自分に気づいたということになります。(当時イエスという名はたくさんいたので出身地方名をつけて区別した)

そうなるとイエスが福音書で語った教義よりナザレのイエスが学んだ教義の方がより元の教えに近く神の意志がそのまま記されているように思えてきます。

そのためキリスト教としても死海文書に書かれた内容とナザレのイエスとの関係が公表され、世界中の人々に認められるということになるのです。


謎の超能力集団とイエス

宗団は次第にその規模が大きくなり、禁欲的で、独身主義と菜食主義を貫き自由で人種による差別もない集団でした。そのため、その宗団には、各地から虐げられた人々が集い信者が減ることはありませんでした。

その宗団の中には厳しい修行や瞑想などにより、超人的な力と未来を見通す予知的能力を身につけた者が現れるようになったと言われています

イエス・キリストはご存知のように2000年前の人物で、その生涯は謎に満ちています。救い主となるイエスの誕生は多くの預言者が予言していました。そのため、時の権力者たちは、救い主の誕生を脅威に思っていたのです。

イエスは救い主であるがために赤子の時から古代ユダヤのヘロデ王に命を狙われました。難を逃れるため父となったヨセフと母マリアと共にエジプトに逃げていたことが新約聖書には記述されています。

この記述からナザレのイエスは、生後1歳から12歳ぐらいまでの記録は途絶えていています。これがイエス・キリストの第一回目の空白の謎の期間と呼ばれています。

また12歳になる頃イエスは、両親と共にイスラエルに戻りました。神殿の前で律法学者達を相手に活発に議論を交わすようになっています。まだ少年だったイエスは、律法に博学な人々を黙らせるほどの学識を持っていました。その後、イエスはまた記録から消えています。これが第二の謎の空白期間です。

イエスが再び人々の前に現れたのは30歳の時でした。その歳にヨハネからバプテスマを受けます。その後、救い主として超人的が力を身につけます。新約聖書には、奇跡としか思えないようなことが記述されているのです。

イエスは第1の謎の空白期間と第2の謎の空白期間である30歳になるまでは、クムラン宗団のもとで修行を積んでいた可能性が高いと推測されています。

適当に時系列を合わせているのではなく、クムラン宗団の規則と一致することが根拠となるのです。クムラン宗団の規則には12歳までは宗団の規則に従って生活するからです。

21歳までは見習いとして修行を積み、入会資格を得た後、試験を受けて30歳までに一人前の宗団員となるというものがあります。これはイエスが、新約聖書の記述に載っていない時期とされる第1、第2の謎の空白期間と再び現れた時期にピタリと合致するのです。


クムラン宗団

イエスは30年間にクムラン宗団から多くの教えを請うたことになります。クムラン宗団がイエスの指向の本質かもしれません。そうなるとクムラン宗団の教義はどこから発生したのでしょうか。

聖書の記録よれば、イエスはヨハネからバプテスマを受けて聖霊を受けています。神の声を告げる人として予言の力を持っていたヨハネは当時クムラン宗団の一員であったとも言われているのです。

初期キリスト教とクムラン宗団の教義には、財産などを共有したり、救い主の誕生を待ち望んだり、終末思想などの類似点が多く見受けられます。これは死海文書がキリスト教の原点である根拠ということになります。

しかしながら、クムラン宗団のエッセネ派は、非常に厳格でした。その厳格な宗団の中で、モーセの律法を超えた愛の教えを説いたのですから、必ずしもその枠に収まるような考えの持ち主ではなかったようです。

クムラン宗団は救い主を待ち望み、終末思想に傾倒していたと言われています。光の子と闇の子の最終戦争が起こり、人類は死の瀬戸際に見舞われますが、その時二人の救世主が現れると後世に残しているとのことです。

その二人とはアロンのメシアとイスラエルのメシアです。アロンのメシアはクムラン宗団の末裔から現れます。もう一人のイスラエルのメシアは、日本人だと言われている仮説があります。しかしながら、日ユ同祖論には様々な点で欠陥がありますので、完全には信じることは難しいようです。

その予言によりますと、日本にイスラエルの民の末裔がいて、その人物が、イスラエルのメシアすなわち救い主になるということなのです。

クムラン宗団は旧約聖書のダニエル書を特別視しています。ダニエル書は終末の予兆が始まってから約70年後に世紀末の代表曲が来ると伝えています。

イスラエルの建国が死海文書が発見された翌年の1948年であり、それから数えて約70年後の2017年から2018年いわゆるハルマゲドンが起こることが示唆されましたが、時は過ぎ去っています。

予言的な表現は様々な解釈がされほとんどが実現されないか後出しジャンケン的な表現で世に現れます。


URL<https://www.youtube.com/watch?v=fNTODUrujI4>アクセス日:2022年8月29日

まとめ

イエスの2度の空白期間はクムラン宗団で修行をしていた可能性がある。

紹介欄

死海写本 「最古の聖書」を読む (講談社学術文庫) 

イエスとエッセネ派―退行催眠で見えてきた真実

入り組んだ宇宙 ー第一巻・地球のミステリーと多次元世界の探究

死海文書が明かすイエスの2度の空白の期間
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