明治維新はタルタリア文明を消滅させるテロ

明治維新はタルタリア文明を消滅させるテロ

この記事の概要

明治維新はタルタリア文明を消滅させるテロだったのです。明治政府の狙いは、タルタリア様式の文化を排除することであり、明治政府は神道を国境に定め、神社を保護しました。そして仏教寺院を破壊する政策を取ったのです。仏教寺院の破壊と聞くとお寺を想像してしまいますが、実のところ仏教寺院ではなくタルタリア様式の大聖堂だったのです。


タルタリアの痕跡

タルタリア帝国が存在した痕跡や証拠は、完全否定できるものではありません。伝説や伝承に対する否定を語る人たちの多くは、自分達の知識が常識だと思い込んでいます。その理由で、自らの知識を超える情報はすべて疑っているのです。
多くの否定論者は頭ごなしに否定する傾向にありますが、それらは、今まで学校で教わったことがなく、身近に感じることができない内容であるからなのでしょう。

タルタリア帝国と日本の関係について考えていくと、学校の歴史で習った事柄やテレビで放映されている時代劇の場面、明治以前の歴史、建物などが全く違う次元のものに思えてくるのかもしれません。


モンタヌス東インド社遣日使節紀行

マッドフラッドが発生したと考えられるのは、1816年です。1816年とは、夏のない年と呼ばれています。その年に北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部にて起こった、夏の異常気象により農作物が壊滅的な被害を受けた現象がありました。

その年は、11代将軍である徳川家斉が統治した江戸時代でした。江戸時代は、時代劇などで当時の様子が表現されています。大河ドラマなどでは、必ず時代考察をする専門家の意見を取り入れています。

そのため、どのような街並みだったか容易に想像がつきます。純和風の街並み、侍や商人の着物姿、城下町などが思い浮かびます。ところが、このような風景や当時のファッションが日本全体に広がっていたというのは、ただの思い込みで実際は全く違った風景だったのです。

1669年に刊行されたオランダの宣教師モンタヌスの「東インド会社遣日使節紀行」(当時、日本において記述された史籍以上に明快な記述も多く、信憑性の高いものといわれている。その紀行文の中の日本史によりますと、京都にある三十三間堂は、下記の絵だったようです。見た感じが文化が混ざったカオス感一杯です。画像引用元:「東インド会社遣日使節紀行

しかしながら、モンタヌスが実際に絵を描いたのではなく彼の口伝をもとに絵師が描いたとされています。彼の監修をもとに正確に描いたのか、彼のフィルターと絵師のフィルターの妥協点で完成したのかは定かではありませんが、仏像の表現は現存する仏像とは、かなりかけ離れているように見えます。

当時世界では、日本は極東の島国であり、日本を知る者は少なかったように思われます。そのため異質な雰囲気の国だと考えられていたかもしれません。
文化が混ざり合っているため邪教感のインパクトに影響され、三十三間堂の絵に現れたのかもしれないのです。日本人が知る江戸の純和風な雰囲気を感じ取ることができないのが正直な感想です。
日本の仏像は、基本的に無表情で神々しい雰囲気を醸し出しています。ところが、記録に残された絵を見てみると、仏像はにこやかに微笑んでいます。見学に来ている人々の服装も純和風には見えません。
この絵が写実的なものだったのか、創作を加えたのかは、「『東インド会社遣日使節紀行』(当時、日本において記述された史籍以上に明快な記述も多く、信憑性の高いものといわれている」とあるので、写実的だったと考えた方がいいようです。

建物の様式

彫刻の周りにいる人々の服装も時代劇で見るものとは、全く違うようです。宣教師のモンタヌスは、日本の「神カンノン」と呼ばれる絵を残しています。この「カンノン」とは観音様のことだと思われますが、現代の日本人たちのイメージとは「違う」としか言いようがありません。

これを美的感覚と言うには無理があります。これは正に、インドのナーガかギリシャ神話に登場する女怪ダミアにしか見えません。(ナーガ(Naga)は、元々インド神話に起源を持つ、蛇の精霊あるいは蛇神)
さらにケンペルの「廻国奇観」の中の江戸にある世界という絵を見ても、江戸にある仏像だとされる風景は建物にはタルタリア様式の脊柱とアーチが多数あり人々の服装も、モンタヌスの「東インド会社遣日使節紀行の三十三間堂同様に和風ではなく日本人から見ると明らかに外国の風景だと感じることになります。
『廻国奇観』 とは、1712年に出版された、当時のペルシアを中心とするアジア諸国の現状について報告したエンゲルベルト・ケンペルによる著作物である。 日本に関する状況も一部に書き記されており、この中でケンペルは、当時の日本の鎖国政策を賞賛している。
『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2021年11月16日 (火) 13:33 での最新版を取得。
もう一つ紹介するとアンベールの幕末日本図に出てくる将軍家の寺では建物は、どう見てもギリシャ・ローマ様式の巨大神殿なのです。将軍家の寺というのは東京の芝にある増上寺のことだと思われます。
絵のタッチを見ても技術力は高かったと思われるので、この絵のような風景が広がっていたのは間違いないはずです。
画像引用元:「アンベールの幕末日本図」
絵に描かれている人々と建物を比較すると、建物がいかに巨大であるかが理解できます。当時の日本は、北海道はタルタリアの領土であったと認識していいようです。また日本は、タルタリア帝国との友好国であり、タルタリア文明の影響を色濃く受けていたはずです。
そこで認識を改めなければならないのは、江戸時代に日本はどのような風景だったのかということです。現在の日本は、近代化されたビルが立ち並び、洋服を着た人々が歩き回っています。その中に、和服を着た人たちがポツリポツリとたまに見える状態です。
それと同様に、当時の日本はタルタリア様式の建造物が立ち並び、タルタリア風の衣服を着た人々が歩き回る中に、和風の神社や和服を着た人たちが、ちらほらと見える状態だったのです。
その証拠として、これらの絵が証明しているのです。それでは、私たちが知っている江戸時代とは何だったのでしょうか。

1884年から内務省によってまとめられた日本全国民戸口表などの人口統計によりますと、都市の人口上位10位までの都道府県は次のようになります。
明治17年に日本で最も人口が多かったのは、大阪です。次いで新潟県、愛媛県、兵庫県、愛知県、広島県、東京は7位でした。8位は、福岡県、千葉県、長野県となっています。
江戸時代における江戸のある現在の東京地区の人口は、全国で15位から20位の間だったのです。それは、幕府のあった江戸は日本の中心都市では全くなかったことが理解できます。江戸が世界において、最も人口が多かった大都市であったという発言には疑問が残ります。
では大正時代に至るまで日本の人口の上位を占めていた新潟、大阪、兵庫、愛知などの各府県は当時、一体どんな街並みだったのでしょうか。新潟市内ではタルタリア様式の街並みが広がっていたことが残された写真などからも理解できます。
現在の新潟市内ではすでに多くのタルタリア様式の建造物が失われています。しかしながら、マッドフラッド前の街並みを感じさせてくれます。
おそらく当時は日本海を通じてタルタリアとの交易を盛んに行っていたため、ほぼ完全なタルタリア様式の街並みだったのではないかと考えられています。
明治20年以降、新潟が日本最大の都市だったというと非常に驚きますが、新潟市は日本の玄関口としてタルタリア帝国と交流し発展したため長い間、日本国内最大の人口を誇る街であったことを考えれば理解できるのです。
このほかにも昭和12年の大阪中之島大阪新世界の初代通天閣、日比谷の凱旋門などもタルタリア帝国の影響を受けた建造物だと言われています。凱旋門などは、タルタリア時代の巨大U型磁石で、フリーエネルギー装置の一つだとも考えられています。

この巨大U字型門は現代の商店街の入り口のアーチのように大規模商店街の入り口に必ず設置されていて、それに疑問すら感じず当たり前に見ていますが、商店街全体に電力を配給し、町の人たちの気の流れを整えていたものだと考えられています。


タルタリア帝国は、1816年に核兵器による攻撃が原因で滅亡したと言われています。タルタリアに攻撃を加えた首謀国は、世界の覇権を現代に至るまで権力を握った国であることで理解できます。

日本は、タルタリア帝国と交流がありましたが、攻撃目標にはされなかったので、直接核ミサイルを打ち込まれることはなかったのだと言われています。

しかしながら、タルタリア帝国が核攻撃を受けた後、世界はマッドフラッドが起こり、厳しい冬に襲われることになりました。この影響を受けたのは日本も例外ではありませんでした。

それでも、ロシアやアメリカに比べれば、災害の程度は非常に緩かったようです。日本の低高度地帯(海抜ゼロメートル地帯)が2から3メートルの土砂に覆われ、数年間の不作に見舞われたぐらいで済んだと言われています。

天保の大飢饉は1833年でした。マッドフラッドが起きた1810年代にはこれといった飢饉の記録がありません。このことから他の地域に比べれば飢饉の影響は、はるかに軽く済んだと思われます。ところが、最もマッドフランドの影響を受けたのは関東平野だったのです。

関東平野は全域が関東ローム層と呼ばれます。2から3メートルの赤土の層で覆われているものを指し赤褐色の土壌のうち、東京周辺のものにつけられた土壌学上の名称です。これは1万年前の富士山大噴火の際の火山灰だと言われています。

関東ローム層は、関東平野を広く覆う火山灰起源の地層群である。第四紀更新世の火山活動によるもので、関東地方の特に丘陵や台地などを覆っている。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年9月28日 (水) 08:26での最新版を取得。

1万年前の層であれば、普通は土中深くに位置するはずです。ところが、関東ローム層はあまりにも表層にあり過ぎるのです。このことを意味するのは、1万年前の富士山大噴火の際の火山灰などではなく、200年前のマッドフラッドで堆積した泥だということになります。
マッドフラッド前の関東平野は、東京湾が大きく内陸に抉りこんでいました。現在の埼玉県東部や群馬県南部地域は海だったと考えられます。マッドフラッドが襲い、抉り込んだ海が埋まり、陸地に堆積した泥で海を埋め立て、現在の関東平野が完成したということになります。

タルタリア文化を消した不自然な大地震と大火

日本がタルタリア文化の影響を大きく受けていたとすれば、今もなお、その影響を受けている建築物や文化財を多く見ることができても良いはずです。しかしながら、日本に色濃く残されていたタルタリア文化は、ある出来事で消え去ることになったと言われています。
その「ある出来事」とは、幕末から明治時代にかけて日本を襲った謎の大地震や大規模な火災です。1847年から1858年にかけての約11年間において、マグニチュード7以上の地震が、9回も発生したのです。
注目すべきなのは、ペリーが浦賀に来航し、江戸幕府に開国を迫った時でした。それは1853年以後には、更に大地震が集中したのです。1854年12月23日に起きた安政東海地震の32時間後には、安政南海地震が発生していました。
巨大地震があったわずか1年後の1855年11月11日には首都直下型地震と類似する安政江戸地震が起きました。それから1年後には東日本大震災に匹敵する安政八戸地震が起こっていたのです。
江戸時代の地震が非常に怪しいのですから、大正時代に発生した関東大震災は震度7の地震が立て続けに3度起きたのも自然地震とは思えなくなります。ここでも江戸末期の災害から逃れた多くのタルタリア式の建物が崩壊し、火災で消失しているはずです。
江戸時代末期の大地震では、合わせて10万人以上の日本人が死亡しました。当時の人口の比率から見ると相当多くの人々であったはずです。建物の被害も甚大でした。これにより日本各地にある多くのタルタリア様式の巨大建造物は姿を消してしまうことになったのです。
この文の参考文献によりますと、「廃仏毀釈を免れた建物が今も残っています。それが築地本願寺です。私たちがよく知るお寺とはどう見ても違います」とあります。

次にモンタヌスが描いた平戸城を見てみると、五重塔型の発電施設のようにも見えるかもしれません。現在神社は、全国に8万8000社あり仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い宗教的文化建築物の一つとなっています。ちなみに、仏教系は、約7万7,000件です。日本国内のコンビニが5万8,000店舗なので、それと比較すると神社の数は異常に多いのです。

神社の鳥居は大小さまざまで、もどこに行っても目にします。この状況に慣れきっているので、違和感がありません。しかしながら、どう考えても人口に対する神社の数が合わないのです。

さらに神社の解体工事を行った際、地下から石造建築物が出てくることが知られていますが、これは廃仏毀釈の名のもとに明治政府は全国各地のタルタリア様式のフリーエネルギー発電所を解体し、その土台の上に木造の神社やお城を建てていったからだと考えられます。

タルタリア帝国は多民族国家

タルタリア帝国は多民族国家であり日本はタルタリアの友好国だったようです。日本は、タルタリア文明とアジア文明が混在した国だったと考えられています。

タルタリアと交易していた日本海側を中心とした地方都市が発展しました。江戸は地方小都市の一つでした。しかし、マッドフラットが抵高地の関東地方を襲ったことで、陸地が大幅に拡大し、関東地方は発展を遂げることになったのです。


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