徳川家康に隠された歴史とタルタリアの謎

徳川家康に隠された歴史とタルタリアの謎

この記事の概要

徳川家康に隠された歴史とタルタリアの謎があります。家康の能力には人並みはずれたものがあると考えられていますが実は、多くの影武者たちがそれぞれ、街づくりを行ったとも言われています。江戸を中心に多くのタルタリア様式の建物があります。江戸の街が治水工事が完備され世界的にも衛生面で優れていたのは前文明のタルタリアによるもので歴史が捏造されている可能性があります。


徳川家康の人並外れた能力

徳川家康は、忍耐の人として知られています。日本の歴史の教科書には必ず登場する人物です。家康は、現在の東京で江戸幕府を開き、約260年近く世の中に安定をもたらしました。

1867年、江戸幕府が天皇に政権を返上する大政奉還が行われました。この年に、幕府を再建するための費用として密かに隠したと言われているのが、徳川埋蔵金です。その埋蔵金は現代に換算するとおよそ、3800億円相当とも言われています。

徳川家康は、人間離れした能力を持っていたとの伝説があります。その脅威的な力のため、闇の組織が裏で手を引いていたのかもしれないのです。徳川家康が亡くなったのは、75歳でした。

江戸時代の男性の平均寿命は、32歳から44歳ぐらいと言われています。家康は平均年齢よりも2倍近くの75歳まで生きていたとされています。

なぜ長生きできたのでしょうか。家康は、ある意味において現代の「健康オタク」だったと言われています。栄養に関する莫大な知識を持っていたと伝承にあります。食生活には非常に気を遣っていたとのことでした。

そんな彼の健康と長寿を支えていたのが、麦飯と豆味噌だったとの伝承があります。実際に麦には人体のエネルギーや骨を作るのに不可欠なビタミンB1が含まれています。

豆味噌には疲労回復などに効果があるアミノ酸が含まれており、家康は大豆100%の豆味噌のみを食していたようでした。家康の出身地である愛知県岡崎は、現在八丁味噌で有名です。(八丁味噌とは、愛知県岡崎市八帖町で生産されている長期熟成させた豆味噌)

味噌汁には血管を強化する働きや筋肉の老化防止に効果を持つための鶏肉を入れて飲んでいたと言われています。家康は食事の時には、よく噛んでゆっくり食べるようにしていました。常に戦闘モードを保つため早飯をする武士たちとは違っていたようです。

ゆっくり噛んで食すことは、胃腸の働きを促し、脳の活性化を図るためとされています。食べ物に含まれている栄養素が、生物に与える影響を研究する栄養学が確立したのは、日本では大正時代ごろからだったようです。

300年も前から、家康は本格的に健康に関する研究を、現代にも通用する健康知識を江戸時代で実践していたのです。このようなことから、もしかすると家康は、生命力と膨大な知識量から、当時は超人のような存在だったのかもしれません。

家康は武士の統制を目的とした「武家諸法度」などの法令整備を行いました。それだけではなく、徳川家の反対勢力であった豊臣氏を大坂夏の陣・冬の陣で滅ぼし以降、戦いのない世の中をつくりました。

外国との貿易を積極的に進め、他国からの侵略を防ぎました。秩序の乱れを防ぐために、特にキリスト教の布教を禁止したのです。当時のキリスト教による国家侵略の手口を知っていたからです。

実は、どのようなキリスト教も同じです。表向きは愛国心を支持していても、本質は神の王国を築くことが目的です。最終的に国は滅んでも構わないです。アラビアのローレンスを思い出してみてください。その国に使えているふりをしていますが、やがて裏切ります。

このような出来事が基礎となって、日本は現在に至るまで260年近の平和な時代を迎えたのです。世界規模で見てみると、これほど政権が長く続けば、必ず反乱や内乱が起こります。国内が大混乱になるのです。しかしながら、江戸時代の安定した時代は、世界でも類を見ないほどでした。

そんな家康は江戸幕府を開いてから、たった2年で将軍の座から降ります。在任前後の10年弱で家康が行ったのは、当時の日本では考えられないようなオーバー・テクノロジーレベルの江戸の街づくりでした。


江戸は突如発展した大都市

徳川家康は将軍として在任する前も権力を握っていたと言われています。江戸の街づくりは、江戸幕府を開く10年前の1590年から行われていたようです。都市開発を行う前の江戸は入江でした。そのため海が陸地に切り込んだ形が目立っていたのです。

江戸周辺は低地だったため、水害が多かったのです。大規模な河川工事が行われました。日本では、水を制するものが国を制すると言われるほど治水に関しては、どこの地域でも行われていましたが、江戸周辺は人工河川を作ることで水害を減らし、さらに輸送経路、飲料水の確保、上下水道を完璧に行なっていたのです。

1600年前後に、上下水道が完備されていたのは、世界では江戸だけで、世界一清潔な街と言われていました。

河川の工事を行うことで余った大量の土砂は、江戸城周辺の入江の埋め立てに使用しました。その工事は、海岸線を整え、船着場を完備することで江戸城建設のために必要な大量の物資の調達のために使用したようです。

江戸幕府を設置する前は、湿地帯で住みにくい江戸の街には、18世紀を迎える頃には人口が100万人を超え、世界有数の近代的な大都市へと発展していきました。現代でも環境保全のために遂行されているリサイクルも実行されていたのです。

江戸の街がここまでになるための構想ができたとしても、実際に行うには、桁違いの資金力・技術力・軍事力が必要でした。この構想作りと資金集めは、本当に家康一人が全て行ったものでしょうか。

これらの偉業を成し遂げたのは徳川家康ではない可能性が出てきました。


歴史記録と史実の不一致

家康には多くの影武者がいました。家康のほとんどは全く別人が徳川家康を演じて行っていたということなのです。近代1684年、歴史が書かれた地元誌「堺鏡」によりますと、「家康は大坂夏の陣で討たれた」と明記されています。

大阪境にある南宗寺には、家康の墓と称される所が存在します。南宗寺の資料にも家康について書かれているのです。「大阪の夏の陣で敗れ籠で逃げる途中槍に突かれて亡くなった」と記されています。

現在の鹿児島県、薩摩藩の平安時代末期から明治時代までの資料をまとめた「薩摩旧記録雑録」にも、豊臣家臣が家康の本陣を攻め討ち取ったとの記録があります。豊臣家が一度徳川家に勝っているということが複数の記録に残っているのです。

「幸村は生き延びて薩摩に逃げていた」というのです。大坂夏の陣で死んだとされる真田幸村が、豊臣秀頼を守り、鹿児島県南九州市に移り住んだという伝説が地元で言い伝えられています。もし大坂夏の陣で家康が戦死していたならば、大阪に家康の墓があることにも納得できます。

大阪以外ににも、栃木県日光東照宮、静岡県久能山東照宮にも家康の墓があります。ところが、徳川家の歴代将軍が参拝したのは、大阪の「南宗寺だった」と言われています。

影武者は今も昔も大きな権力者には存在しています。影武者が将軍を演じることは珍しいことではありませんでした。テレビのない時代は、本物の将軍の顔を見たものは僅かだったと考えられますので、本物が誰なのかが分からなかったとも言えます。

北朝鮮の金正恩の影武者は、「明らかに顔が違うのでは」と思える人物が入れ替わり出てくるのを見るくらいですから、テレビのない時代は何人いてもおかしくはなかったでしょう。

当時の多くの将軍の遺書には、「自分の死を3年間公表しないよう」とありました。逆に、本当は生きているのが死んだことにすることもあったようです。

家康は、大坂夏の陣で亡くなっており、その後、家康の影武者を立て事実を隠していたとの伝承もあります。実際に、家康に影武者がいたのであれば、複数人の家康が将軍を演じることで、江戸の街づくりに必要な資金や軍事力を準備した可能性もあります。

現在でいうところのムーン・ショット計画です。一人が10人のアバターを持って、さまざまな経験をするという計画です。これを既に家康は、または家康が亡き後の別な家康が、多くの影武者を使って江戸の街づくりを行っていたことが考えられます。

江戸の街づくりに関わっていたのは、複数の影武者だけではないのかもしれないのです。日本は怨霊と深い関わりのある国です。そこで呪術を使う人物の存在が非常に重要でした。日本の歴史は怨霊鎮魂の歴史です。

呪術と言っても霊力だけではなく、街づくりを計算し、江戸のめざましい発展の裏で関わっていた存在がいたのです。


最強の風水師

江戸城を守るための呪術として風水が用いられました。風水は北東は、鬼が出入りする鬼門です。反対に南西は邪気の通り道の裏鬼門と呼ばれます。

風水では、鬼門と裏鬼門に聖地を置くことで、魔の侵入を防ぐことができると信じられています。この風水を意識して江戸の街づくりをしたのが、僧侶天海です。彼は、徳川家に仕えて政策に深く携わってたいと言われています。

実際に天海が住職を務めた寛永寺と増上寺は、江戸城に対して鬼門と裏鬼門に設置されているのです。徳川代々の武将たちが葬られています。

寛永寺は、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院。山号は東叡山。東叡山寛永寺円頓院と号する。開基は江戸幕府3代将軍の徳川家光であり、開山は天海、本尊は薬師如来である。 徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年9月10日 (土) 14:10 での最新版を取得。

増上寺は、東京都港区芝公園四丁目にある浄土宗の仏教寺院。山号は三縁山。三縁山広度院増上寺と称する。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年9月9日 (金) 20:39での最新版を取得。

その他にも、もともと別の場所にあった神田神社と日枝神社を移動させる事で、寛永寺、増上寺、神田神社を結んだ直線と日枝神社と東京最古の寺院である浅草時を結んだ直線が、江戸城の一点で交わるようになっています。

家康は、鬼門と裏鬼門を徹底して封じることで江戸城を守護しようとしました。現代でも行われている江戸の三大祭があります。

  • 神田神社の神田祭
  • 日枝神社の山王祭
  • 浅草寺の三社祭

江戸城の鬼門と裏鬼門を清めるという意味がありました。天海はこの位置関係を計算しつくし、街設計を行なっていたと伝えられています。江戸の街づくりに徹底して風水を遂行した天海でしたが、謎の多い僧侶でした。

その天海の裏で闇の組織が動いていたと言われています。その組織の力によって、江戸の街ができた可能性があるのです。


日本の裏の組織

天海はある武将と同一人物だったと言われています。その武将とは、本能寺の変で織田信長を討ち取った明智光秀なのです。1582年の本能寺の変の後、織田信長の家臣であった豊臣秀吉の反撃により討死したことが通説の歴史です。

しかしながら、彼の生存説を裏付ける伝承や記録が数多く残されています。明智光秀について、京都にある複数の寺院には、戦から逃れてきた明智光秀を匿ったという伝承が残されています。

大阪の寺院では一時期、明智光秀が潜伏していたという伝承があります。天台宗の総本山、比叡山には、光秀と名乗った僧侶の記録と光秀が亡くなったはずの1582年以降に光秀の名前で寄進された石碑が発見されています。天海の正体が明智光秀という数々の証拠も残されているらしいのです。

徳川家の乳母と重臣には、多くの明智光秀の元家臣が起用されていたようです。豊臣家の傘下に入っている明智家の家臣が、普通であれば、重要されいることは不自然なことです。

もし家康が信用した天海が明智光秀であったならばあり得ることです。明智光秀の孫は豊臣家の家臣となっていたにもかかわらず、徳川家との戦いの後に救済されていたようです。

天海と明智光秀の出生はほとんど知られておらず、推測の域を出ていないという謎を持っています。天海が現在の栃木、日光の一部の場所に明智平という名前をつけたという伝承が残っています。

天海の墓地の場所は明智光秀の城の跡地と言われています。このようなことから天海は明智光秀と同一人物という説が根強く残っているのです。

明智光秀の背後には大きな組織があったと伝えられています。その組織は八咫烏なのです。日本神話に登場する3本足を持ったからすで、八咫烏は世界最古の秘密結社として活動していたとして有名です。

八咫烏とは、何をする組織だったのでしょうか。

天皇が住む宮中の祭祀を執り行ったり、食事や清掃など天皇の生活の世話を引き受けたりしていたとされる天皇の側近として関わりがありました。天皇をその裏でサポートし、天皇に対して強い敬意を払っている組織です。

明智光秀は八咫烏の一員だったという説があります。本能寺で織田信長を討ったのは、織田信長が天皇制を廃止しようとする動きをしていたことが理由の一つです。織田信長は当時の天皇に退位勧告までしているとのことです。

天皇制を廃止することよりも、天皇を超える存在になろうとしたことの方が正しいでしょう。天皇を超える存在とは、神です。全知全能の神であり宇宙の創造主の神です。そのキリスト教の神の存在の影響を受けています。

天皇を超えた存在の生き神になろうとしたのは、信長の城である安土城に象徴されています。それは城ではなく神殿だったのです。生き神として人々から崇められる存在となろうとしたのです。

その生き神としての存在が徳川家康に引き継がれ「東照大権現」の神号を賜わっています。

天海明智光秀説は、年齢的に無理なところがあります。天海イコール明智左馬之助の方がかなり近い仮説が成り立ちます。下記のリンクをご覧ください。

天海は明智光秀の甥の明智左馬之助だった


URL<https://www.youtube.com/watch?v=by-_KyT2sao>アクセス日:2022年9月13日


まとめ

現在の皇居はかつて江戸城があった場所です。この周辺には非常に多くのタルタリア様式の建物があります。宮内庁の建物は1階部分が半分埋まっているように見えます。マッドフラッドによるものと考えられます。他には、築地本願寺、東京駅、日本銀行など多くのタルタリア様式の建物があります。また東京の地下はかなり古い時代から存在していたと言われています。

1816年に泥の洪水が起こった年と考えられています。皇居にタルタリア様式の宮内庁の建物があるということは江戸時代にはこの様式の建物があったということになります。

不自然なほどの江戸の大火、大地震、富士山噴火など、自然災害では無かった可能性もあるのです。自然災害にすり替えた戦争が起こっていたかもしれません。

「日本の歴史は明治期に捏造された」ということは、嘘でもなさそうです。「江戸時代は実はなかった」ということも、もっと考察する必要があるのでしょう。

こうなってくると本当の歴史はタルタリアについて深掘りすることが真実への到達への道なのかもしれません。


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