平将門首塚伝説の謎

平将門首塚伝説の謎

この記事の概要

平将門首塚伝説の謎には、京都で晒し首になった後3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んで行き首が落ちた場所が東京の中心にある首塚なのです。平将門公は、朝廷の要職が藤原氏に独占され、重税に対する憤りで、関東に京都とは別な朝廷すなわち独立国を打ち立てようしました。将門公は、関東王朝の天皇なのです。


平将門首塚の伝説

関東で反乱を起こし倒れた平将門の首は、故郷を目指して飛んで行ったと伝えられています。反乱の理由は、朝廷の要職が藤原氏が独占し、地方の政治は国司が横暴に振る舞ってやりたい放題だったからです。民衆は朝廷から派遣された国司からの重税や労役にとても苦しめられるという状況に、将門は憤慨したのです。
現代も同じように、政府は日本国民に対し重税を課しています。円安で国家が恩恵を受けているにもかかわらず。電気代の補助金も打ち切ると言うのです。外国へに対しては無償でドンドン援助しています。どうして日本国民を守らないのでしょうか。将門公が東京の中心にいて正しくない政府に対して天罰を下してもらいたいものです。
将門は朝廷の反逆者として討たれた後、晒し首となりました。3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んで行き、首が落ちた数箇所のうち一つが三井物産ビルの東側だと言われています。
この伝説を裏付けるかのように京都と関東の間には、将門の伝説を伴う首塚が点在しています。日本一のオフィス街にもあります。ある意味において、江戸城を霊的に保っているかのようです。
 映画帝都物語では、関東、東京の技術的な要になっているその場所に首塚があります。4年の歳月をかけて第6次の整備事業を行い、令和3年4月26日に竣功しました。

カエルの置物

平将門の首塚には、将門の首が京都から飛んで帰ったという伝承があります。左遷や誘拐などの願いを込めてカエルが供えられていました。ところが、千代田区大手町にある平将門の首塚の碑の周りにあったカエルの置物は、改修工事後に撤去されたようです。
大手町の首塚は、ちょっと日当たりは決して良くないのですが、独特な雰囲気があります。かつては、カエルの置物が置いてありました。首が斬首されて、見聞のために首が京都に持って行かれます。
ところが、平将門の首は、故郷の坂東に飛んで戻って来ました。帰って来たので、それにちなんで、カエルの置物が置かれました。「無事に帰る」と言う風なお願い事という意味で、神田明神もしくはこの首塚をお参りする人が、首塚に「必ずカエル」という願掛けでお参りする際、カエルの置物をお供えするようになったと言われています。

平将門公の胴塚

神田明神もゆかりがある様です。もともと、この首塚があるところは神田明神の境内でした。その理由で、今でも神田明神の方でも平将門を祀っているのです。
将門の首塚は、日本列島各所に散在しています。茨城県坂東市にある神の田んぼの山と書いて神田山(かどやま)と呼びます。神田山については、神田明神の神田が付けられています。名前はちなんでつけられたと言う説もあります。
その神田または「かど」とは一体何かと言うと、体のことであると言うのです。坂東の方には胴塚があります。延明院の境内の中に、首がないので、胴体だけをこの延明院で祀っているのです。
延明院境内の中には、首がないので体をお祀りしていると言います。体にちなんで神田山(かどやま)になったと言われています。ただし、 果たして首だけが他に見聞で持ってかれたと言う説がいろいろあり、そもそも首も一緒にここに葬られたのではないかと言う説もあるのです。
そのような意味で、ここ延明院境内を首塚と呼べるかもしれないという指摘もあります。だから神田山も実は首塚だと言われているのです。

京都の首塚・美濃の首塚

京都にも、将門の首ゆかりの神田明神があるようです。こちらの京都は、本当に狭い間にあります。ほこらです。今は、囲って小屋みたいなお家の形で覆ったところにあります。けれども、そこは、まさしく京都における将門の首を獄門にした晒し首にした場所です。京都で晒された将門の首を巡っては、生けるが如く色が変わらなかったとも言われています。
不敵な笑みを浮かべていて目をつぶることなく、歯噛みして復讐を誓ったことが伝えられています。これ京都から東国を目指した将門の首が 、早くも美濃上空で射落とされてしまったという伝承もある様です。
京都に首が送られて、さらにまた戻ってくると言う往復をしたのです。その飛んでいる状態を祀ったのが御首神社です。京都に晒された将門の首の表情ですが、これは何か霊的なものを表していると言う事でしょうか。

関東王朝の新天皇

平将門公は、新しい皇、新皇です。これはどの様な意味かというと、要は関東に京都とは別な朝廷すなわち独立国を打ち立てようしました。ある意味において、将門公は、関東王朝の天皇なのです。
桓武平氏なので、同じ天皇家の流れにはなりますが、独立国として関東の天皇として、君臨したということです。そこが一階の武将とは違う のです。戦になり将門は奮迅しましたが、流れ矢がこめかみに刺さったとか目に当たったと言う説があります。まさに打ち抜かれたことによって落馬したところで、首を切られたのです。

静岡掛川の十九首塚

かと思えば、首は京都へ運ばれる途中で埋葬されてしまったと言う伝承もあります。今度は、京都に行く途中で将門公と18人の部下の首も一緒に運ばれて来ました。
静岡の掛川辺で見聞しますが、逆賊であるということで無茶苦茶な扱いをされます。もうすでに首を確認したからもういいや、その辺に放してしまったのです。
さすがにこれはいかがなものかということで、当時の藤原秀郷と地元の方が改めて、19名を弔ったのです。(掛川宿の西の端に十九首という町がある。藤原秀郷が平将門一門19名を討伐してその首を弔った塚と伝えられている)ここは、五輪の塔があるくらいで長らく荒廃しいました。
将門公と言えば、祟りがあって、大手町の方の首塚も更地にしようかとか、駐車場にしようとしたら、関係者が亡くなったとか、いろんな祟り話があります。
掛川宿の西端の十九首は大丈夫かと言う話が持ち上がった頃に、不幸なことが起こったらしいので、きれいに整備してきちんと改めて綺麗にしたそうです。

怨霊信仰

「邪険にされたら呪ってやる」みたいな感じになってしまいますが、祀られれば、やはり守ってくれると言う感じになります。これは、まさに日本独特な怨霊信仰、御霊信仰です。たとえ怨霊であってもきちんと祀ることによって、御加護があると信じることができます。菅原道真の太宰府天満宮もそうです。怨霊でしたがきちんと天神様としてお祀りするのです。
将門公も怨霊なのですが、改めてお祀ることによって、ご利益を受け取ることができます。
菅原道真の時も梅が飛んで行ったとか、平将門の時は自分の首が飛んだと言う何でも飛ぶ世界でした。 怨霊は特に、この天神様に関しては、雷が落ちるのです。さらには、疫病でバタバタ死んででいくと言う目に見えないものとプラス空から来ると言うことが天神系です。将門公系の怨霊には、祟りはつきものです。空から降ってくるというものも多々あるのです。

URL<https://www.youtube.com/watch?v=fITo24faIs4>アクセス日:2024年5月14日


まとめ

関東で反乱を起こし倒れた平将門の首は、故郷を目指して飛んで行ったとの伝承がある。

将門公の首が故郷の坂東に飛んで帰って来たので、それにちなんで、カエルの置物が置かれた。

延明院境内の中には、首がないので体をお祀り、体にちなんで神田山(かどやま)になった。

京都に首が送られ、戻ってくる飛んでいる状態を祀ったのが美濃の御首神社。

藤原秀郷が平将門一門19名を討伐してその首を弔った十九首塚。


紹介欄

平の将門 (吉川英治歴史時代文庫) 文庫

伝説の日本史 第1巻 神代・奈良・平安時代 

最初の武士は藤原秀郷 平将門を討った名将の知られざる実像と伝説

平将門首塚伝説の謎
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