万葉集の舞台背景は四国だった

万葉集の舞台背景は四国だった

この記事の概要

万葉集の舞台背景は四国だったようです。例えば、舒明天皇が大和三山の天香具山に登られ、宮本を見渡した歌には、「海原」と書いてあります。「かまめ」とは何でしょうか。これはカモメです。「天香山から見たら海原が見えて」とは、つまり海が見えてカモメが飛んでいるということなのです。この歌の舞台背景は、四国の阿波徳島です。


奈良のカモメ

万葉集の舞台が近畿地方ではなく実は四国だったという話があります。
舒明天皇の万葉集における和歌を見てみます。

御製(ぎょせい)とは、天皇や皇族が手ずから書いたり作ったりした文章・詩歌・絵画などをいう。一般には、歴代の天皇が詠んだ和歌のみを御製と称し、歌会始などでは、皇后の読んだ和歌を「御歌」、その他の皇族の詠んだ和歌を「お歌」と使い分けている。また「御製」と書いて「おおみうた」と和語で読む場合もある。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2022年5月19日 (木) 14:25での最新版を取得。


天皇の、香具山に登りて望国(くにみ)したまひし時の御製歌 舒明天皇万葉集2種目の和歌

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 

引用元:万葉集・巻1ー2

現代語訳:
大和には群山があるけど 特に立派な天の香具山だ その頂に登って大和の国を見渡せば 広々とした平野には ご飯を炊く煙がたくさん立っているよ 池には水鳥たちがたくさん飛び交っているよ ほんとうに美しい国だ この蜻蛉島大和の国は

万葉集巻1の2番目に収録されている舒明(じょめい)天皇の国見の歌です。天香具山(あまのかぐやま)は大和三山の一つに数えられ、現在では香久山とも書きます。香久山は、古代、天から降りてきた山ともいわれるほどの大和で最も格式の高い山です。

舒明天皇がどう歌っているかというと、舒明天皇が大和三山の天香具山に登られ、宮本を見渡して書いています。そして「国原は、煙立ち立つ海原は、かまめ立ち立つ」と書いています。

奈良の天香具山の頂上(標高は152.4メートル)へ登って大阪湾が見えるのでしょうか。「海原」と書いてあります。次は、「かまめ」とは何でしょうか。これはカモメです。「天香山から見たら海原が見えて」とは、つまり海が見えてカモメが飛んでいるということなのです。

奈良には、カモメはいません。だからこの歌の舞台背景はどこなのでしょうか。「天香具山は奈良の香具山だ」と嘘を教える学者がいます。違います。これは四国の阿波です。四国の阿波徳島です。

「大和には群山あれど とりよろふ 天香山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原は かまめ立ち立つ」です。だから奈良では、海原も見えないし、カモメも見えないのです。

明らかに学者がどう述べているのかの解釈は、「かまめ」はカモメであることが分かります。それで鴨と間違ったと言うのは、失礼な話です。舒明天皇に対してそのようなバカなことを現代の学者は平気で解釈しています。このようにして日本の歴史が変えられました。

実は大和朝廷は、元々四国の邪馬壹(やまと)国、阿波にあったのです。日本が単一民族になるために中国人の呼びかけに答える形で、阿波を捨てました。

そして和歌山や奈良には、同じ地名があります。例えば吉野川です。四国の吉野川と和歌山の吉野川です。そんなことは全国にもあるではないかと言われますが、例えば北海道の北広島市です。

北広島市の歴史は、1884年に広島県人25戸103人が集団移住したことに始まります。1894年に分村して広島村になり、1868年に広島町になります。1996年に市制を施行しました。南札幌市にする案もあったようですが、市名に自分たちの自己認識性を残すことを住民は選んだのです。同じ地名なのはこのような理由があります。

奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因み「吉野川」と呼ばれますが、河川名を案内する標識などには水系名である「紀の川」が併記されています。また地図や橋の銘板には「吉野川」と記されています。そのほかに「木御川」「紀伊御川」とも呼ばれます。


急流吉野川での舟競争

奈良の吉野川で舟を並べて競うことができたのでしょうか。次の歌から見てみます。

吉野の宮に幸しし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌

やすみしし わご大君の 聞(きこ)し食(め)す 天(あめ)の下に 国はしも 多(さわ)にあれども 山川の 清き河内(かふち)と 御心を 吉野の国の 花散(はなち)らふ 秋津の野辺(へ)に 宮柱 太敷(ふとし)きませば 百磯城(ももしき)の 大宮人は 船並(ふねな)めて 朝川渡り 舟競(ふなきほ)ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激(みずたぎ)つ 滝(たぎ)の都は 見れど飽かぬかも

引用元:万葉集・巻1−36

現代語訳:

あまねく国土をお治めになるわが大君(天皇)の支配なさる国は天の下に多くあるけど、山と川の清き河内と御心をお寄せになる吉野の国の(桜の)花の散る秋津の野辺に、宮殿の柱をしっかりと立てられ(国をしっかりおさめ)、宮中の大宮人は船を浮かべて朝川を渡り、舟を競って夕川を渡っている。絶えることのないこの川のように、この山のそびえ立つように天皇も永遠に高々と統治されることだ。水の激しいこの滝の都はいくら見ても飽きないものだ。

ここでいわゆる文化勲章をもらう万葉集の学者・先生は、吉野とは、奈良の吉野だと述べます。四国には、吉野川があります。これは、四国の吉野です。なぜならば、その歌の作中には、「ももしきの 大宮人は 舟並めて、舟を並べて、朝川渡り 舟競い」と書いてあります。

奈良の吉野川で舟を並べて競えるでしょうか。あのような急流は、ものすごい勢いで流れています。ところが、四国の吉野川は、とてもゆったりと水が流れているのです。だから舟を並べて競うことができるわけです。その理由で、日本の万葉集の世界は隠されています。四国の阿波なのです。


琵琶湖の鯨

大后の御歌一首

鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海(うみ)を 沖放(さ)けて 漕(こ)ぎ来る船 辺(へ)附きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ

引用元:天智天皇の后 万葉集・巻2ー153

現代訳:

鯨を取るような淡海の海の沖や海岸近くを漕ぎ来る船に向かって、岸辺に付きて漕ぎ来る船よ。沖で櫂をそんなに撥ねないでください。岸辺で櫂をそんなに撥ねないでください。若草のようだった夫(天智天皇)が愛しんだ鳥たちが驚いて飛び立ってしまいます。

この歌も天智天皇が亡くなったときに大后が詠んだ挽歌です。この大后は倭大后(やまとのおほきさき)。

鯨を取るような大きな淡海の海の沖や岸辺近くを行く船に向かって、「そんなに櫂を撥ねないでください。天智天皇の愛しんだ鳥が飛び立ってしまいます。」と訴えかけている内容です。

文化勲章をもらう人は、この淡海を近江の琵琶湖だと言うのです。近江の海である琵琶湖には鯨がいるでしょうか。鯨はいません。鯨魚取りです。「鯨魚(いさな)取り 淡海の海を沖放て」だから淡海を見ているのです。

これは分かるように阿波四国の阿波です。そして淡島の間の綺麗な海です。そこに鯨が来ていました。鯨とは南氷洋ではありません。和歌山の太地は、今でも捕鯨をしています。

近江の海とは淡海の海で阿波なのです。そこで鯨が泳いでいました。だからはっきりと「淡海の海」と書いています。阿波の淡路島の綺麗なところです。鯨魚(いさな)取りとは、そこで鯨を取っていました。天智天皇の奥さんは阿波の人です。琵琶湖には、鯨はいません。


四国の白い衣

これは非常に有名な歌です。春過ぎて夏来たるらしい白妙の衣干したり天香具山。これは誰でも知っています。ここで問題は、何故、持統天皇は「白妙の衣を干して夏が来た」と言ったのでしょうか。白い衣を干したので「夏の浴衣である」と。そんなバカなお話ではありません。四国へ行ったら白い衣を干すというのは、宗教的儀式として意味が残っています。

だからそれを見て「あー夏が来たんだな」と感じたのです。「夏か来て」とは、春夏秋の夏ではなくて、「お祭りの時期が来た」と言っています。これは、四国のことを考えたら意味が理解できるのです。


この歌の前半部分では、天香具山に桜は木の下が暗くなるほど満開に咲き、池には鴨が妻を呼び鳴いているなどの美しさが讃えられています。
後半部分では、宮殿から退出して池に遊ぶはずの大宮人の姿はなく、船には梶も棹も無しに荒れてい荒廃ぶりを悲しんでいます。

参考文献:ユーチューブ、宇野正美 万葉集という話
万葉集の舞台背景は四国だった
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