真珠湾攻撃をした山本五十六が日本を敗戦に導いた

日本が戦争に負けることは仕組まれていた

この記事の概要

日本が戦争に負けることは仕組まれていたのです。真珠湾攻撃は非常に罪が重いのです。戦争のシナリオを全てひっくり返したのは、真珠湾攻撃でした。真珠湾攻撃は世界にとって悲劇でした。これがなければアメリカは本格的に参戦しなかったのです。日本の悲劇どころかアメリカの若者たちも多く亡くなりました。


世界の悲劇になった真珠湾攻撃

アメリカとは限定戦争にする予定でした。それは、アメリカが植民地にしていたフィリピンでは戦争はしますが、フィリピンはアメリカに返還することを前提にし、とにかくアメリカを戦争に巻き込まない作戦でした。南方へ行き資源が乏しいイギリスを叩く予定でした。

「南へ行き西に進む」この作戦は勝利のシナリオでした。決してアメリカを巻き込まないことが前提です。

勝利するはずだった戦争のシナリオが、なぜ変わってしまったのでしょうか。戦争のシナリオを全てひっくり返したのは、真珠湾攻撃でした。1941年12月7日の真珠湾奇襲攻撃です。

この真珠湾攻撃は非常に罪が重いのです。日本軍が練った負けない戦争計画を全部ひっくり返しました。ここで日本の敗戦の原因をいきなりつくりました。

これで日本は負けたと言えるのでした。近衛文麿前首相や風見章元官房長官も仕掛け人です。家族や側近の人々の日記やメモによりますと、12月8日に「これで日本は負けた」と言っていたのです。

日本中は提灯行列でお祝いしているときに、「日本は負けた」と言っていいました。仕掛けた本人たちは、「これでしてやった」と思ったのです。

その後4年間は、近衛文麿は、嬉しくて「ウキウキ」していました。痔の手術で痔もしっかり治し健康そのものでした。日本の大勢の人々は栄養失調で苦しんでいるのに、敗戦後の日本の覇権をとれることがとても楽しみだったようです。

真珠湾攻撃は世界にとって悲劇でした。これがなければアメリカは本格的に参戦しなかったのです。日本の悲劇どころかアメリカの若者たちも多く亡くなりました。

ヨーロッパの限定戦争を大戦争にしたのは、真珠湾攻撃でした。もっと言えば、真珠湾攻撃さえなければ、広島・長崎へ原爆は落ちなかったのです。東京大空襲や日本各地の都市部への大空襲も、沖縄本土攻撃も、硫黄島の攻撃も、北海道への攻撃もなかったのです。


ヒットマン山本

世界を奈落の底に突き落としたのは山本五十六でした。ヒットマン(アメリカの俗語で殺し屋を指す英単語)山本五十六として、30ポイントのゴシックの活字で教科書に載せるべきなのです。

ところが、世の中では、山本五十六は英雄として扱われています。出所は戦意高揚もありましたがハリウッドなのです。

真珠湾攻撃は、世界の平和が戦争に負けた日でした。これは日本だけではなくアメリカでも、多くの人々が戦争を避けようとして努力していました。

ルーズベルトの陰謀は感づかれていました。ルーズベルトがとんでもないことをしないようにみんなは戦争をしないよう頑張っていました。この血の滲むような努力をぶち壊してくれたのが真珠湾攻撃でした。

戦争が始まって、日本は南方へ行って資源を取りに行くことでした。極東に厳選した場合、日本の交戦力は一気に発揮されるのです。極東に限定した場合、アメリカは本格参戦しない前提でしたので、日本よりも経済交戦力が低いのです。

しかし英米合作で、ある程度の数年の準備期間を経て経済交戦力を上げて行き、本格参戦しないまでも、イギリスを制していくのがシナリオです。

経済高戦力が味方の陣営でないのは明らかですから、経済交戦力が交わる一歩手前で英米連合と、一旦、講和しようとするのが戦略でした。

真珠湾攻撃によってアメリカは一瞬で「キル・ザ・ジャップ」になってしまったのでした。平和から「キル・ザ・ジャップ」になってしまって、戦争の兵器、軍需産業などが一気にボリュームアップしてしまいました。

アメリカの一般市民までが、資源も十分あるのですが、金属を拠出しようとする国民が現れ、戦意が高揚してしまったのです。

それによって、アメリカの経済交戦力が上方シフトしてしまいました。そのために日本と交戦力が交わる位置がグッと近づいてしまいました。

「南に降りて行って西へ行きインド洋を制覇する」のは当初は2年ぐらいの余裕がありましたが、真珠湾攻撃により、半年以内に行わなければならないくらいに期間が短くなってしまいました。真珠湾を攻撃したために半年でイギリスを制圧しなければならなくなってしまったのです。

真珠湾攻撃をして大穴開けましたが、さらに海軍は南に行って東へ行けと政府や陸軍に圧力をかけてきました。どんどん、太平洋の島々を攻めて行きました。そのような島々を占領しても意味がありません。兵站が広がるだけで意味がありません。


純粋な山本司令長官

ヒットマン山本五十六は純粋でした。世界の陰謀には絡んでいませんでした。彼は単純で、派手好き、博打好き、女好きで有名でした。

戦術のことしか考えていませんでした。戦略は考えていなかったようです。米国へ留学し米国駐在していました。アメリカでさまざまなことを見てきたので、「ピョンピョンと飛んでいって、戦術的にハワイを攻撃できるかもしれない」とそこで盛り上がることを想像したのでしょう。

昭和16年の初め、戦争の一年前には、山本五十六は、当時の及川大臣に手紙を書いています。もし真珠湾を叩けば、アメリカは「ギャフン」となって、アメリカ海軍とアメリカ国民は戦争をやる気を失うと。

この手紙を見てわかるように、彼は、全く分かっていないのです。ただの派手好き男の考えだったのでしょう。彼は牛若丸のつもりでいたのでしょうか。山本五十六は真珠湾攻撃をしたくてたまりませんでした。戦術的勲章になるので、真珠湾攻撃をしたかったのです。

昭和15年の暮れには、連合艦隊の中で真珠湾攻撃を決めていたのです。トラトラトラの映画でもわかるように、似たような地形で練習もしていました。

「秋丸機関」という研究に基づいて、大本営政府連絡会議でプラニングをしていました。その前にも陸海軍の実務レベルで、詳細に詰めてたにもかかわらず、その攻撃を秘密に陸軍に伏せていました。卑怯にも戦争の前段階、企画段階、議論の検討段階で、真珠湾攻撃を隠していたのです。

表に出したらどうせ潰されると分かっていました。表に出したらアメリカを刺激するだけだから「バカ」と言われると分かっていました。

昭和16年11月です。日本が開戦を決めたのはハルノートではありません。ハルノートとは間違いです。

日本の開戦を決めたのは、昭和16年8月の金融措置で追い込まれ、本格的に決定したのは昭和16年11月です。11月からドタバタが始まりました。11月上旬から戦争準備です。ドタバタの中で初めて永野修身が、陛下に奏上しました。そこで、彼は、「アメリカの議会はこうなっているとか世論はこうなっているとか」そんな話しはしません。

真珠湾攻撃は、「南に行って西に行く戦略の助けになる」くらいにしか言っていないのです。でなければ陛下は決裁しません。

作戦を決めるのは軍令部というところです。永野修身軍令部総長は、海軍省ではなくて、海軍の中の軍令部です。そのトップの永野氏、そしてその上にいる元海軍大臣の米内光政、この二人が、国際金融資本の命令のもと、真珠湾攻撃をやりたがっている山本五十六、戦略のない山本、戦術しか考えないはっきり言ってバカな山本を連合艦隊司令長官にさせ準備させたのです。

山本五十六は連合艦隊司令長官としての人気は16年8月に任期が切れていました。今までは任期で全て人々は交代していました。

それを交代させなかったのです。連合艦隊の人々の本音では、皆反対でした。「真珠湾攻撃は俺がやる」と言っているので、変えなかったのです。

永野修身は、ハーバード大学へ留学しています。海軍ではアメリカ通で知られていました。この人が隠れて山本五十六を使って、真珠湾攻撃の練習をさせて、陸軍にも政府にも内緒にして、ドタバタで上奏して、決裁してもらったのです。

なぜ決裁したかが理屈が立ちません。その証言記録が文字で残っています。海軍の将軍としては珍しく、終戦直後捕らえられました。巣鴨プリズンに収監されました。巣鴨プリズンで国際検事局の検事から尋問を受けています。

現場のGHQ側からしても不思議です。アメリカ人から見ても真珠湾攻撃は愚策中の愚策でした。軍人としても興味があるので何回も質問しています。

あなたはなぜ、軍令部総長として真珠湾を攻撃したのか。(次回へ続く)


参考文献:ユーチューブ、仕組まれた敗戦!真珠湾攻撃の裏側【CGS 林千勝 大東亜戦争の真実 第7回】

<https://www.youtube.com/watch?v=KHukSu-oca8>アクセス日:2021年5月16日


紹介欄

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