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終戦記念日が8月15日になった謎なのは、アメリカやソ連のその日が9月2日だったからです。その謎はイエズス会のフランシスコ・ザビエルが来鹿した1549年8月15日に理由があります。イエズス会の設立は、1534年8月15であり、ローマにより承認されています。戦闘や人の情報を得たりする諜報とか軍事が原点になっているのがイエズス会です。その時から「服従関係が続いている」ことを示しているのです。
8月15日の謎
日本の終戦日がなぜ8月15日だったのでしょうか。世界の権力者は数字に拘っています。815と何らかの意味があって、終戦記念日にさせられたと思います。
アメリカにとって日本との終戦日は、戦艦ミズーリー号での署名があった1945年9月2日、東京湾に停泊するアメリカ軍の戦艦ミズーリー号上でした。連合国に対する降伏文書の調印式が行われ、すべての戦闘が集結しました。
本来だったら終戦日は9月2日になります。アメリカにとって9月2日が終戦日、ロシアにとっても同じ9月2日でした。
ところが、2020年に終戦の日を9月3日に変更しました。中国と合わせたのです。これは抗日戦と勝利記念日です。ロシアも対日戦勝記念日という形にしました。
イギリスは、ヨーロッパの戦争を終わらせたのは5月8日でした。V day、Victory in Europe Dayです。
明治時代よりもさらに昔に問題が
日本は、明治時代よりもさらに遡るところに問題があります。日本はイエズス会が入って来てから、その勢力が浸透して行ったと思われます。
イエズス会のフランシスコ・ザビエルが来鹿(鹿児島に降り立った)したという記録は、ザビエルの聖師滞鹿記念碑にあります。それは、1549年8月15日なのです。
ここから日本に対して、イエズス会が本格的に日本に入った歴史が始まります。ザビエルは8月15日以前に港に着いていました。
しかしながら、船から下船することができなかったそうです。8月15日が意味があるというのは、その15年前、イエズス会は、1534年8月15日、イグナティウス・ロヨラによって、設立されたのです。
ロヨラと非常に親しい関係にあったのが、ザビエルでした。ロヨラは初代イエズス会の総長でしたが、黒い貴族フランシス・ボルハの傀儡だったのです。
イエズス会を承認したのはローマ(バチカン)でした。当時はバチカン市国ではなくローマでした。イエズス会は教会の戦闘的秩序と言われていて、戦う教会の統治としてイエズス会ができているのです。
戦闘や人の情報を得たりする諜報とか軍事が原点になっているのがイエズス会です。カトリックと一緒と一般に思われていますが、これは軍事諜報機関です。
イエズス会を承認したローマの教皇であるパウルス3世の名前は、アレッサンドロ・ファルネーゼです。ファルネーゼは、偉大な軍人と言われていた軍人で、黒い貴族です。教皇になる人は、16世紀ごろには、黒い貴族と言われている人が、教皇にもなっていました。
ファルネーゼが建てた建物が、今でもイエズス会の本部として使われています。それはローマにあります。イエズス会のマークと一緒に、ファルネシフスと書かれています。イエズス会の人々は、黒い服を着ています。だから今でも黒い教皇と言われたりしています。
諜報機関のイエズス会
南蛮貿易が広がって行きました。南蛮貿易は武器につながって行きました。イエズス会は宣教師であったということになっていますが実は、武器商人あるいは諜報機関だったというのが正しい見解です。
さらに、中枢層の中核に入り込むことを非常に心得ており、そのような戦略をとっていました。さらにキリシタン大名を作ります。
そこで大村純忠、有馬晴信は完全なキリシタン大名になり、僧侶を迫害し殺害したのです。イエズス会の人たちは、長崎は、教会を建てたりしていたわけです。長崎には教会が建てられ、リトルローマと呼ばれるキリスト教文化が開花しました。
長崎の重要な土地は彼らに捧げてしまいました。今で言うところの売国奴だったのです。さらに8月15日の日付で見てみると、織田信長が許可したお寺があります。それは聖母マリア被昇天教会通称「南蛮寺」です。
京都布教の拠点としてイエズス会が建てた和風のキリスト教会です。奉献ミサは、教会の完成前の1576年8月15日(被昇天の日)に開催されました。ザビエルが鹿児島に来て以来40年余りに、約50万人の日本人が改宗しました。
信長もやはり武器の良いものを知りたいことがあって、日本語ができるイエズス会の人たちが、信長が一番強くて偉い人だと分かっているので、近づいて行きました。
そのためにそれなりに良い関係を作っていたと言われています。信長の時代に、長州5よりも300年も早く少年遣欧使節団があり、ローマに行っています。
教皇グレゴリウス13世の下に派遣された人たちと言うのが、伊東マンショが一番有名な人です。その時にもらったメダルの裏側には、ラテン語で、日本の王によるローマ教皇への最初の施設および、「服従」とあります。「服従」を誓いに行ったというか、「服従」させられたのです。
このメダルが長崎歴史文化博物館にあります。大阪万博のイタリア館には、伊東マンショの肖像画がありました。イエズス会であり、ローマでありその時から日本との関係というのは、「俺たちのものだ」と彼らが一方的に思っているのです。
伊東マンショは服従に対して「はい」と言ったかもしれませんが、当時暮らしていた我々一般の日本人は、「はい」と言ったわけでもありませんでした。しかしながら、すでに16世紀にはそういう間柄になってしまっていたのです。
ところが豊臣秀吉が、イエズス会の領地になった長崎で、キリスト教信者ではない人々が奴隷として連れ去られることを知り、1587年にキリスト教の布教と南蛮貿易を規制する「キリシタン宣教師追放勅令」(バテレン追放令)を発令しました。ついでに京都の南蛮寺も取り壊されてしまいました。
秀吉はローマ教皇とイエズス会が日本を乗っ取り、支配し、奴隷化することを恐れたのです。
URL<https://www.youtube.com/watch?v=gG3YWZqyWlY>アクセス日:2026年9月2日
まとめ
終戦記念日を日本だけ8月15日にさせられている。
イエズス会のザビエルが来鹿(鹿児島に降り立った)したのは、1549年8月15日。ここから日本に対して、イエズス会が本格的に日本に入った歴史が始まる。8月15日が意味があるというのは、15年前、イエズス会は、1534年8月15日、イグナティウス・ロヨラによって、設立されたため。
南蛮貿易は武器につながった。イエズス会は宣教師というのは表向きで実は、武器商人あるいは諜報機関だった。さらに、中枢層の中核に入り込むことを非常に心得ており、キリシタン大名を作った。