この記事の概要
明治維新から人の価値は優劣の物差しで図られるようになってしまいました。明治に入って急速に西洋的思考の個人主義を押し付けられた若者たちの心は、凄んでいったのです。人々を競争社会に巻き込み、落ちこぼれた人間には生きる資格がないかのような考えが広まっていきました。
時代閉塞の現状
石川啄木の著書「時代閉塞の現状」には次のような記述があります。
【時代閉塞の現状】 石川啄木の評論。 副題は「強権、純粋自然主義の最後および明日の考察」。 明治43年(1910)、同年発表された 魚住折蘆 うおずみせつろ の「自己主張の思想としての自然主義」への反論として執筆、社会主義への関心を綴る。
「今日我々の父兄は、だいたいにおいて、一般学生の気風が着実になったと言って喜んでいる。しかし その着実とは、単に今日の学生の全てが、その在学時代から将来の心配をしなければならなくなったということではないか。
今日においては教育はただその『今日』必要な人物を養成するだけのものに過ぎなくなっている 。」つまり立心出世と言うと聞こえはいいけれど明治時代では、人々の価値は優劣の物差しで図られるようになってしまったことを嘆いているのです。
藤原操の投身自殺事件
藤村 操は、北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時の学生・マスコミ・知識人に波紋を広げた。1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪[8]。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発列車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された。『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2024年6月20日 (木) 02:17 での最新版を取得。
彼は現在の東大の前身となる旧制第一高等学校の生徒であると同時に父親はなんと銀行の頭取でした。つまり彼は圧倒的な頭脳を持ち誰もが羨む家系に生まれたエリート学生でした。だがそんな将来が約束されていた青年が「煩悶」という2文字を残して自殺してしまうのです。
「煩悶」とは悩み苦しむこととほぼ同義ですが、明治政府が掲げた「個人主義こそがこれからの価値だ」と言われていた時代にも関わらず将来を約束されたエリートがただそれだけの理由で生きる目的を見失い自殺したということが世間に衝撃を与えたのです。
そしてさらに悲惨なことに藤村操が自殺した滝では、後追い自殺者が耐えなくなり、自殺未遂者も合わせて185人がその身を崖の下にじたのです。
後追い自殺をした若者たちは、「エリートである藤村さえ息苦しい時代閉塞の時代で 生きる目的を失ったのだ。それなのに未来がない自分たちには価値があるのだろうか。」
こう感じたのかもしれません。このように明治に入って急に西洋的な考え方の個人主義を押し付けられた若者たちの心は凄んでいったのです。
まとめ
教育は『今日』必要な人物を養成するだけのものに過ぎなくなっていて、立心出世と言う価値によって人々は優劣の物差しで図られるようになってしまった。
後追い自殺をした若者たちは、「エリートである藤村さえ息苦しい時代閉塞の時代で 生きる目的を失ったのだ。それなのに未来がない自分たちには価値があるのだろうか。」
明治に入って急に西洋的な考え方の個人主義を押し付けられた若者たちの心は凄んでいった。