徳川埋蔵金は新しい金貨になり海外に流出した

徳川埋蔵金は新しい金貨になり海外に流出した

この記事の概要

徳川埋蔵金は新しい金貨になり海外に流出したと言われています。アメリカやイギリスにおける貿易に使う金貨、銀貨に対応するために同じレートの新しい金貨に作り替えます。当時の日本は薩長土佐の若い人々で、船や技術を欲していました。特に軍艦を必要としていたので、その金貨、銀貨で海外から購入したのです。


日本の金銀は世界でも有名だった

織田信長は金が大好きでした。秀吉も同じように金が大好きでした。家康は、金をたくさん貯めて徳川埋蔵金と呼ばれる伝説を産んでいます。人間の社会、日本の長い歴史の中で金は、それほど大切なものでした。

その理由で金をただの金属として扱ってはダメなのです。金は文化を作る基礎です。マルコポーロが、東方見聞録を書いた時、今の日本列島、日本海に、金がいっぱいある場所がありました。それが佐渡島です。

徳川の金は、ほとんど佐渡島から出た金です。銀は島根県の石見銀山です。石見銀山のすごさは、その当時の世界地図には、日本の島が描かれ、そこに石見銀山が登録されていました。

日本の金銀は、それほど有名でした。その石見銀山は、非常に素晴らしい銀の脈があり、当時世界で使われていた銀の三分の一は、この岩見銀山から出たと言われるほど有名だったのです。

まさに、日本は夢の国です。現代に生きている私たちはお金は、紙幣という先入観を持っています。しかしながら、徳川時代には、紙幣ではなく、金や銀が流通していました。


貿易に必要な大判小判

海外と貿易する際には、金銀が使用されていました。当時の日本の金銀は、海外では、高い評価を受けていました。徳川幕府には、大判小判がありました。大判小判は薄い延べ棒(純金を固めて作られた塊)みたいな物です。

大判小判には、時代を経ていくごとに他の金属を混ぜていきましたが、ほぼ純金でした。だから日本の金貨、銀貨、大判小判が力を持っていたのです。

当時、日本の一般生活では、ほとんど大判小判を使っていませんでした。銅銭と銀で作ったお金です。 お金持ちは大判小判を使用していましたが、一般の人はほとんど物々交換です。

百姓も侍も大名も天皇陛下の公家たちも、金が大好きです。金を嫌いな人間、国民。人種民族いないのです。その理由で、日本の金山と銀山は世界的に有名になって行ったのです。


埋蔵金の在処

徳川から明治に時代が移ります。明治に活躍した大半の侍は、イギリスに密入国して様々なことを学びました。明治維新政府の男たちは、イギリスに対してお礼をしたくてしょうがありませんでした。

そこで何のお礼がいいか考えます。イギリスを目指した明治日本、つまり明治日本は、欧米列強に追いつくためにお金、貨幣の制度を整えなくてはならないということでした。明治日本は、貨幣制度を近代化させるためにどのような手段を取ったのでしょうか。

徳川埋蔵金どこにも埋めてありません。幕末の危ない時に11万トンから 12万トンの金、その金とはほとんどは大判小判です。

幕府は、「金をどこに置こうかな」と考えていました。それを管理していたのが小栗上野介です。戊辰戦争がどんどんと江戸の方に移動している時に、小栗は、とっくに、江戸城を出払って山奥に隠居していました。

官軍は、「小栗の野郎どこ行きやがった。あいつ金を隠したところを知ってんだ。どこにあるか知ってんだ」と思っていたはずです。それで追いかけて行って、隠居していた家から引きずり出し、裁判もしないで、そこの庭で斬首したのです。

そして小栗上野介の首を晒したのです。なぜ彼の首を切ったのでしょうか。埋蔵金のありかを知ってる人物です。秘密の在処を知っている人間をいち早く殺しました。口を破られたら困るからです。


埋蔵金は江戸城の堀の中

どこに埋蔵金を隠したのかは、おそらく江戸城の中です。江戸城の内堀があります。堀の水は澄んでいないので丸の内に放り込んだのです。

堀の中に穴を掘ると泥の跡で分かってしまいます。そもそも、たくさんの埋蔵金があるので穴を掘っていては、間に合いません。そこで、ポンポンと堀の中に大判小判が入った箱を降り投げたことが考えられます。

薩長、土佐も馬鹿ではありません。おそらく「堀の中に埋めたんだろう」と考えたはずです。堀の中に潜らしたら案の定、箱にいっぱい入っいるのが出てきたと推測できます。見つけたから「小栗を探して早く殺せ!」と。だから、問答無用、裁判もしないですぐに斬首したのです。


埋蔵金はどこに行ってしまったのか

埋蔵金は、絶対に薩長土佐が持っていることを知ってるイギリスが、アイディアを貸しに来ました。薩長が手に入れたとされる埋蔵金の金銀はどこに行ってしまったのでしょうか。

薩長、土佐の維新を行った人々はまだ若くやる気満々ですが、その金銀をどのように使っていいか分かりません。そこで、イギリスの外交官ハリーパークスやジャーディン・マセソン、香港上海銀行( イギリスのアヘンのマネーロンダリング銀行)に相談します。

徳川や薩摩が出した藩札は、ただの紙切れです。あんなものは、近代が進む日本で、世界で、通用しません。そんなものを出したら恥をかくだけです。

イギリスにとっても、藩札は紙切れです。確かに良質な和紙で作ってあります。そこで、新しい貨幣制度を作ることにしました。それが円です。現在、私たちが使っている円です。


新しい貨幣制度

新しい貨幣制度が始まった当初は、違う漢字でした。昔の古い「圓」です。新しい「圓」を作るための元になるお金は金貨です。銀貨です。それで「圓」を作ります。

薩長と土佐は、どのようにして作ったのでしょうか。大判小判がありましたが、そんなものを作っている時代ではありません。

メキシコ銀貨はスパニッシュ・シルバーと言われます。貿易をしていたので、これは日本にたくさんありました。あれと同じものを金貨で作り、銀貨で作るのです。それが近代化の道なので、先ほどのイギリスの方々に「新しい貨幣制度のお手伝いしてくださいますか?」と尋ね、「もちろん手伝います」と返事がきます。

金貨を作るためには機械が必要です。鋳造機、日本にありません。それは香港にあります。香港は、イギリス王室の鋳造、造幣局です。香港には2、3台あります。「香港の場所は閉めるので鋳造機を1 台を買ってみませんか?」と言い寄ります。そこにしゃしゃり出たのが、トーマスグラバーです。

いわゆるミドルマンとして仲介人として入ってきます。グラバーが香港に行って1台を買って、大阪城の中に造幣局が作られたので、それを持って行きました。


最初に作られた20円金貨

ところが日本人は、使い方が分かりません。だから香港にいるイギリス人の長と5、6人の技術者たちを連れて来ました。その購入した鋳造機は1 台、今で言うところの15億円ぐらいです 。小さな機会で「ガチャコン、ガチャコン」と最初に作られたのが金の20円金貨です。

ものすごい価値の金貨です。それで20円、10円、5円、2円、1円の金貨が作られて行きます。この20円金貨は、非常に大切なところです。20円金貨はちょうど、人差し指と親指で円を造った形の大きさです。20円金貨そのものの重さは33.3グラムです。

その20円金貨の中の純金の重さが31.3グラムです。それは欧米で純金を測る時に使うオンスです。金貨は1オンスです。その金貨は、99.999の純金で、1つの金貨の重さが 31.1グラムです。だから日本の金貨の方が1オンスよりも0.2グラム重たかったのです。

欧米の人たちや商人たち、銀行から見たら1オンスがないのです。レートを合わせてるために、20円金貨が必要でした。レートを合わせ、重さを合わせるために、イギリスが使っていた造幣鋳造機で20円金貨を作ったのです。それで何10万枚何百枚と作られて行きました。


海外に流出した金

20円金貨、10円金貨、5円、2円、1円金貨と作って銅がそれぞれ10% 入って、その銅との重さを取り除いて純金だけを計算すると、1億1千万7,000キログラムです。すなわち11万トンより、もう少多くあったのです。それがほとんど海外に流出してしまいました。

11万トンの純金、あの当時どれだけの価値があったのでしょうか。世界中で、それほど持っていたのは、おそらくイギリス、日本、アメリカぐらいです。

アメリカやイギリスにおける貿易に使うのは金貨、銀貨です。当時の日本は薩長土佐の若い人々でした。物がいっぱい欲しい年頃です。船も欲しいし、技術も欲しいのです。アメリカやイギリスから売ってもらったのは、軍艦です。

そこで支払ったのは金貨です。紙幣ではありません。紙のような物は、イギリスやアメリカが信用するわけがありません。ただの紙切れです。

その時に作られたのが横浜正金銀行です。貨物船が入ってきた時にすぐ払えるように、横浜に銀行を作りました。日本人がほとんど見ることがない金貨と銀貨が、そこから土石流のように出ていったのです。

ただ横浜正金銀行は他の銀行との付き合いもほとんどなく、世界中の貿易商たちとのお付き合いです。それで横浜正金銀行が日本の輸出入を1945年まで牛耳りました。


表舞台から消えた横浜正金銀行

これほど大きく勢力があった横浜正金銀行はどうして日本の表舞台から消えてしまったのでしょうか。終戦後、マッカーサーが来ます。アメリカは、日本を徹底的にリサーチしていましたから、横浜に来てGHQの銀行担当員が「お前たち店閉めなさい」まだ仕事が残っているのに「締めなさい」と命じられてしまいました。

いわゆる廃止になったのです。廃止になっても日本に入ってくるもの、日本から出ていくものが時々あります。それらの支払いがある特に、誰かが為替をやらなければなりません。

専門家は全部正金銀行にいました。それで「誰かいいのはいねえか?」と聞き出し、これが不思議に三菱系が出て来たのです。東京銀行が後を継ぎますと、東京三菱銀行になり、東京三菱銀行がさらに、東京三菱UFJ銀行になっていきます。名前は変わっても根は同じです。

明治維新の時から作った日本の銀行、横浜正金銀行の筆頭株主は、どなただったのでしょうか?天皇家です。当時、天皇家は非常にたくさんの財産を持っていました。雑木林なども持っていました。

明治維新になって徳川が持っていた天領、土地 森林などは、一晩で一瞬に天皇家の持ち物になりました。マッカサー元帥のヘッドクォーターGHQを調べてみたところ、天皇家の財産は、世界で1番のお金持ちでした。

横浜正金銀行の役目は貿易の支払い、受け取り全て金で商売をしていました。もちろん為替がありました。底辺になっている元金は純金です。その横浜正金銀行がGHQに潰されました。その根本の原因は、「おめえたち日本軍侵略したのに金を出したろう」と言うことです。

「軍資金を融資したのはお前の銀行ではないか」と。それゆえA級戦犯として廃止です。潰すのではなく銀行を廃止したのです。 


参考文献:ユーチューブ、【佐渡島の金山】江戸→明治で金が大量流出、一体なぜ?明治維新の裏歴史を解説|西鋭夫のフーヴァーレポート2017年10月号

URL<https://www.youtube.com/watch?v=l10ToIpArVE&t=927s>アクセス日:2024年8月4日


まとめ

徳川の金は、ほとんど佐渡島から出た金、銀は島根県の石見銀山。

貿易には、金銀が使用されて、当時の日本の金銀は、海外で、高い評価を受けていた。

徳川埋蔵金は、11万トンから 12万トンの金で、ほとんどは大判小判であり、江戸城の内堀に入れたと考えられる。

レートを合わせるために1オンス31.1グラムに合わせるために、31.3グラムの20円金貨が作られた。

軍艦や武器を購入するために金銀が流出してしまった。

貿易の専門家がいた横浜正金銀行がGHQに廃止されたが、三菱が後を引き継いだ。


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地球は乗っ取られている。それも、私たちが、神だと信じている存在によって。「聖典をかける少女」によりますと、創世記がどのように、誰によって書かれたか説明されています。「プレアデス+かく語りき」がモチーフになっているようですが、地球は、30万年前に聖書に登場する創造神たちによって乗っ取られていることが理解できます。

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