広島・長崎に投下された原爆はフェイクだった

広島・長崎に投下された原爆はフェイクだった

  • 2025年4月15日
  • 2025年3月1日
  • 歴史

この記事の概要

広島・長崎に投下された原爆はフェイクだったのです。爆弾効果の特定専門家が、広島・長崎に入る前に、「太陽のようなものが地上600メートル上空で爆発し、その爆発によって全ての物質を一瞬のうちに燃え尽くし、消えて跡形も無くなる」と思っていました。ところが、広島・長崎には建物や木が残っているのです。砂塵に帰した場所が見つかりませんでした。本物の原爆であれば溶けて無くなるはずでした。


まだ完成されていなかった原爆

1945年5月31日の「暫定委員会」会議の議定書によりますと、原爆開発の発展段階としてアーサ・コンプトン博士は、開発のさまざまな段階について説明しました。

アーサー・ホーリー・コンプトン(Arthur Holly Compton, 1892年9月10日 – 1962年3月15日)は、アメリカの物理学者。1923年に電磁放射線の粒子性を実証するコンプトン効果を発見し、これにより1927年にノーベル物理学賞を受賞した。これは当時としてはセンセーショナルな発見であった。光の波動性は十分実証されていたが、光に波動と粒子の両方の性質があるという考えは簡単には受け入れられなかった。シカゴ大学にあったマンハッタン計画の冶金研究所の指導者でも知られ、1945年から1953年までセントルイス・ワシントン大学の学長を務めた。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2024年6月21日 (金) 12:07 での最新版を取得。

第一段階では、ウラン235の分離が行われた。(ウラン235は核分裂しやすい、ウラン238は核分裂しにくい

第二段階では、「ブリーダー」(増殖炉)を使用して、プルトニュウムまたは新しいタイプのウランを得ることができる濃縮物質を生成した。

第一段階は、現在の爆弾の材料を生産するために使用され、第二段階は、現在生産されているものよりも、爆発力が大幅に向上した原子爆弾を生産する。

ここではまだ「ウラン型の原爆ができた」という報告ではないのです。濃縮物の生産は、現在では数ポンドから数百ポンドの段階であり、創業規範を十分に拡大して何トンもの生産が可能であると考えられていました。

第二段階の生成物質から製造される爆弾は、実際の運用では、まだ実現されていません(昭和20年5月31日の段階で)が、そのような爆弾は化学的には、机上の計算では、確実であると考えられました。

特定の技術的および冶金学的(やきん:鉱石などから金属を取り出す技術)な困難を考慮すると、第二段階の実現には1946年1月から1年半かかり、大量のプルトニュウム(長崎型)を取得するには3年かかります。1949年にならなければできないと述べているのです。競争国が、アメリカに追いつくためには、おそらく6年かかると推定されていました。これらのことから、本物の原爆は、できていなかったのです。


一瞬のうちに燃え尽くさなかった

原爆が広島・長崎に落ちた後、陸軍の工作部隊とは別に、調査団が入ったのは10月です。それよりも先駆けて、独立した有名な専門家セバスキーが、日本に入っているのです。

それはアメリカの航空業界の雄で、爆弾効果の特定専門家として、貢献している人物です。彼が広島・長崎に入る前に、「太陽のようなものが地上600メートル上空で爆発した」と思っていました。

彼がイメージしたのは、その爆発によって全ての物質を一瞬のうちに燃え尽くし、消えて跡形も無くなるというものでした。公式発表では4,000度だったのです。

火球そのものは数万度です。1キロ離れても1,200度とも言われています。ところが、広島・長崎に来てみたら、建物や木が残っているのです。彼はびっくりして広島・長崎中を探し回りました。砂塵に帰した場所が見つかりませんでした。

長崎の爆心地では建物の塀が残っています。本物の原爆であれば溶けて無くなるはずでした。広島の場合でも、原爆ドームなどが残っており砂塵にはなっていません。

実は原爆が投下された場所よりも東京大空襲の方が被害が大きかったのです。原爆が爆発して、3,000度になったところに残った木があります。


完成した原爆は投下されていなかった

広島・長崎に「原爆」が落とされましたが、実のところ完成した原爆は投下されなかったのです。それは、被爆者が当日語った体験談、臨床状況、物理的状況、証拠写真などから確認できます。証拠写真にはフェイクも入っています。原爆資料館の展示、米国人などの証人、日本史からのアプローチ、戦後終戦交渉、医学的研究対策などから分かって来ています。

フェルミ博士は、現在の工学的問題の研究を進めるには20ポンドの濃縮物が必要であり、第二段階の研究には、0.5トン1100ポンドからの供給が必要であると想定しました。

エンリコ・フェルミEnrico Fermi、1901年9月29日 – 1954年11月28日)は、イタリア、ローマ出身の物理学者。統計力学、量子力学および原子核物理学の分野で顕著な業績を残しており、中性子による元素の人工転換の実験で新規の放射性同位元素を数多く作った。1938年にノーベル物理学賞を受賞した。また、マンハッタン計画に参画し、世界初の原子炉の運転に成功し、「核時代の建設者」「原子爆弾の建設者」とも呼ばれた。

『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』最終更新 2024年6月16日 (日) 08:32 での最新版を取得。

広島・長崎に投下された原爆は、本物の原爆ではありませんでした。ライバル国よりも先に核爆弾を完成させ、それを日本人に投下し、恐ろしいほどの殺傷力を見せつけたのです。ところが、それは原爆ではなかったのです。


彼ら根本はフェイクから成り立っている

原爆を一番最初に完成させ、世界の覇権国になったことを知らすために広島・長崎に住む無辜の民を無差別に虐殺しました。これが彼らにとっての正義でした。その正義とは、アメリカの背後にいたウォール街のユダヤ人の神です。異教徒は皆殺しにしても良いという情け容赦のない一神教なのです。

一神教は世界を平和にしません。どんな嘘をついても自分達の利益のためならなんでもありなのです。例えば、お金です。彼らのお金、現代のお金は、紙切れです。フェイクです。

例えば、人類が月に行った?もう騙されないでしょう。1969年7月20日に月面に人類がたどり着いています。それから半世紀上が経過しているのに、まだ月へ旅行に行けません。どうしてでしょうか。

コロナパンデミックはどうだったでしょうか。フェイクです。今では風邪と同じ5類になっています。ワクチンは有害だったことが明らかになってきています。

彼らのやることなすことは全てフェイクなのです。なぜならば、彼らの信じるものは存在していないからです。


<https://www.youtube.com/watch?v=GQS2bJXqJfU>


まとめ

1946年1月から1年半かかり、大量のプルトニュウム(長崎型)を取得するには3年かかる。1949年にならなければできない。競争国が、アメリカに追いつくためには、おそらく6年かかると推定されていた。これらのことから、本物の原爆はできていなかった。

原爆は、太陽のようなものが地上600メートル上空で爆発し、その爆発によって全ての物質を一瞬のうちに燃え尽くし、消えて跡形も無くなるというものだったが、広島・長崎に来てみたら、建物や木が残っていた。砂塵に帰した場所が見つからなかった。

広島・長崎に投下された原爆は、本物の原爆ではなく、ライバル国よりも先に核爆弾を完成させ、それを日本人に投下し、恐ろしいほどの殺傷力を見せつけるためだった。

原爆を一番最初に完成させ、世界の覇権国になったことを知らすために広島・長崎に住む無辜の民を無差別に虐殺した。これが彼らにとっての正義。その正義とは、アメリカの背後にいたウォール街のユダヤ人の神。異教徒は皆殺しにしても良いという情け容赦のない一神教。そして全てはフェイクから成り立っている。


紹介欄

原子爆弾の誕生 上 

ロバート・F・ケネディ・ジュニア<上> 〜真実を求める闘志の目覚めと戦いの幕開け

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