この記事の概要
太平洋戦争は国際金融資本が画策し日本を敗北させた戦争でした。日本の戦略は絶対にハワイを叩いてはいけないということで決定していました。そのアメリカ世論を眠らせたままにしておく事が戦争戦略の肝だったのですが、それを全部ひっくり返すことを真珠湾攻撃で行ってしまったのです。
東京裁判の不可解な謎について
第二次世界大戦、大東亜戦争は、国際金融資本が戦略を画策し、日本を敗北させた戦争でした。戦後における歴史をどのように見せるかも国際金融資本やその系列のグループが企画して、その舞台設定をしたのです。
その舞台とは東京裁判でした。その判決の結果、陸軍の幹部が絞死刑になりました。絞死刑になった人々の中には、海軍の幹部はいませんでした。
しかしながら、永野修身海軍軍令部総長だけは、永久戦犯で捕まっています。巣鴨拘置所に入れられてそこで、亡くなっています。不可解な死を遂げました。
A級戦犯は、 第二次世界大戦の連合国によるポツダム宣言六條に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条項により定義された戦争犯罪に関し、極東国際軍事裁判により有罪判決を受けた者である。
条例では、a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪の3つの罪が記載されたが、英語原文でこれらがabc順になっているため、項目aの平和に対する罪で訴追された者を「A級戦犯」と呼ぶ。
ウィキペディア:最終更新 2021年3月30日 (火) 03:39
あの戦争は日本が追い込まれに追い込まれた戦争でした。アメリカルーズベルト政権から経済封鎖を食らって、石油が一滴も入って来なくなりました。昭和天皇は外交一本で行けと言っていたのですが、諸外国から完全に経済を封鎖され、経済的侵略を受けたため、やむを得ず立ち上がったのです。
しかも、勝つべき戦略、合理的戦略を持って開戦したのです。しかしながら、国際金融資本は、このあたりの歴史を抹殺したかったのです。
彼らは、日本の国策、軍戦略を担っていた陸軍将兵の幹部を抹殺したかったのと同時に、口封じをして、彼らを悪人に仕立て上げたのです。まさに逆転の歴史にしているのです。
そして、陸軍将兵を悪玉に仕立て上げた戦後の東京裁判史観をつくりました。その出発として東京裁判を行いました。
陸軍は開戦の2年前から、陸軍省戦争経済研究班というシンクタンクを作って勝つべき戦略を研究構築したのです。200名ぐらいのシンクタンクです。
秋丸機関とは、ノモンハン事件後の1939年9月に、総力戦を経済面から研究するために、日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織。正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」、対外的名称は「陸軍省主計課別班」。 ウィキペディア 最終更新 2020年10月25日 (日) 15:22
そこに共産主義者の経済学者が潜り込んで行きました。陛下も陸軍の首脳部も、政府の首脳部、元老たちも、アメリカは圧倒的に大きな国で豊かな国であり、軍事力も大きくなるので絶対に戦争をしないという方針でした。
この「陸軍省戦争経済研究班」では、どのようにしたらこの苦境を乗り越えられるかを研究していたのです。
何故日本は対米戦争に進んでしまったのか
共産主義者としてあるいは国際金融資本家としては、アメリカがどうしても日本と戦争をして、日本に負けて欲しかったのです。
そのためには昭和天皇が、「この戦略なら日本は勝てそうなので、開戦やむなし」という方向に進ませ、天皇陛下の裁可をいただく絵を描く必要がありました。
その絵を描いたのが共産主義的経済学者の有沢広巳とか蝋山政道だったのです。
その絵に基づいて、南に降りて行って、現在のインドネシアで石油を取り、当時アジアで覇権を握っていたイギリス大英帝国を叩くために、インド洋に行く計画でした。
ガンジーが待っているインドへ行って、インドを独立させ、大英帝国等の海上ルートを封鎖してドイツと組むことによって、イギリスに勝つ絵が描けたのです。しかもその絵は妥当でした。
後に、チャーチルたちもアメリカの将軍たちも、アメリカの戦争の最高責任者スティムソンも、「南に行って西に行けば、日本は勝っていた」と述べていたのです。
フィリピンについては占領した後、「そのままアメリカに返してもいい」と外交で合理的な戦略を日本は持っていました。
この勝算がある戦争を持ってして、東條英機も、昭和天皇もやむなし(「どうしようもなく仕方がないこと」)ということで、12月8日に開戦したのです。
しかしながら、その戦争戦略に無かったことがありました。戦争戦略の議論で絶対にやっては行けないと言われた事が、ハワイ攻撃だったのです。真珠湾奇襲攻撃でした。
アメリカを絶対怒らせてはいけなかったのです。なぜならば、アメリカ世論は戦争に反対でした。第一次世界大戦で多くの人を失ったように、若者をこれ以上殺させてはいけないという思いが強かったのです。
そのアメリカ世論を眠らせたままにしておく事が戦争戦略の肝だったのですが、それを全部ひっくり返すことを真珠湾攻撃で行ってしまったのです。
国家の戦争戦略の会議で決まっていないことを行ったのです。アメリカとは戦わないと決まったことの裏を行ったのが、米内光政、特に永野修身、山本五十六たちです。
永野修身はそのことを行なった最高責任者です。それが東京裁判で話されてしまったら非常に困りますから、巣鴨拘置所で海軍の元軍令部総長永野修身は、殺されたのではないかという噂もあるほどです。実際にそうなのでしょう。
日記や荷物も不自然な形でなくなっていました。盗まれたのです。遺族が取りに行って、山陽本線の列車の中で盗まれたということです。
参考文献:ユーチューブ、【林千勝先生登場vol1】「東京裁判と明治維新の虚構を暴く!」
<https://www.youtube.com/watch?v=EIgP9ftTEsY>アクセス日:2021年4月3日