勾玉は豊受大神に行きつき経済の権威を象徴する

勾玉は豊受大神に行きつき経済の権威を象徴する

この記事の概要

勾玉は豊受大神に行きつき経済の権威を象徴するのです。五穀豊穣、衣食住の守り神として崇められる豊受大神は、「天照大神」に食事を与える神です。神聖な食物マナである米粒を与えると理解できます。米とは金融を象徴するものです。


三種の神器の象徴

宗教的な権威である統率力、生きていくために必要な物資を循環させる経済力、安全保障の軍事力の三つが必要です。これらは善でも悪でもありません。どの方向に使うかで善にもなり、悪にもなります。
この世は、この三つの力が悪の方向に引きづられています。世界には、この三つの力の本拠地があります。宗教的な権威の場所は、バチカン市国です。お金の権威の場所は、ロンドン市です。軍事力はワシントンD.C.です。
今現在、軍事力が光のチームに取り戻され、ワシントンD.C.は包囲された状態です。バチカンは制圧され、金融は世界中でゲサラ法が実施予定とされています。
個人的な見解としては、この三つの力は、三種の神器だと思っています。八咫鏡は、権威であり、叢雲の剣は軍事力です。勾玉は、金融の力の象徴です。この勾玉の歴史を見たいと思います。

勾玉の歴史

特徴的な形の勾玉が三種の神器の一つで、伝統的な日本の装飾品として現代まで受け継がれています。日頃、持ち歩いている人も中にはいるほどです。この勾玉、何を表したものなのでしょうか。
勾玉のルーツは、縄文時代まで遡るようです。勾玉の形は何を模したものなのかははっきりとした見解がまだありません。
勾玉は古代日本における装身具です。その特殊な形は、日本由来のものとされています。勾玉の形は、コの字型 、Cの字形をしたものが一般的ですが、細かく分類すると色々な形があります。
丸い頭の部分に穴を開けて紐や他の石と組み合わせて首飾りとし使用されていたものもありました。大きさはおよそ1センチから5センチぐらいまで色々です。その装飾品は、翡翠製のものが多く次いで瑪瑙(メノウ)、水晶、琥珀、鼈甲などで作られたものもあります。
古代の出土品は材質によっては腐敗して失われてしまっているものもあります。しかしながら、勾玉は、腐食しない材質のおかげで形や色を保っているものが多く考古学的に、貴重な資料なのです。
マガタマとは、漢字では、次のように書きます。
勾玉、曲玉、
一般的には文字通り曲がっている玉の意味に捉えられています。しかしながら、この漢字は、漢字が伝来した時に当てられたものだという説があります。マガタマあるいはマカタマという音は、漢字伝来以前から日本にあって別の意味を持つ音だったという説もあるようです。
勾玉の歴史は、縄文時代早期にまで遡ることができます。2020年12月には、約1万年前の勾玉型の石製装身具が鹿児島県種子島の遺跡から発見されました。それは国内最古級のものが出土したと発表されたのです。縄文時代には万物に魂が宿るというアニミズムの考えがありました。そのため、勾玉はお守りとして石を身につける風習がすでに存在していたようです。
縄文時代中期から後期になると翡翠製の勾玉も見られるようになりました。縄文時代晩期になると、翡翠以外の石も用いられるようになりました。緑色片岩など緑色を基調とした素材が多く緑は重要な色だったようです。

勾玉の分布

縄文時代の勾玉の分布を見てみると、早期・前期に関東を中心に見られます。やがて関東を囲うように東北中部へ増えて行きます。
縄文中期に入ってから、東日本全域・九州の一部地域で見られるようになります。後期は東北へ広がる傾向が見られます。さらに北部の北海道で一番多く確認されています。北海道・北東北の縄文遺跡群には、北日本では縄文文化が広く栄えていたとも言われているので関連性が非常にあるようです。
また南方では沖縄県でも確認されています。沖縄に勾玉がどのようにして伝わり受け継がれていったのかについては諸説あります。沖縄では現在でもノロ(琉球神道における女性の祭司)の祭具として勾玉が使用されています。

弥生時代中期

弥生時代中期には形が、洗練されるようになりました。現在私たちが知っている形の勾玉は、この頃に生まれたようです。九州全域にも広がり、お守りとしてだけでなく装飾品として用いられるようになりました。勾玉は、米作りが本格的に広がり社会構成が発展したために権力の象徴のように進化していきます。
魏志倭人伝によりますと、邪馬台国の女王(とよ、いよ)が魏への貢物として勾玉を2つ献上しています。その当時は、勾玉が非常に価値の高いものであると認知されていたことが理解できます。
古墳時代に入ると豪族が現れます。この頃に、各地で墳墓が建てられるようになりました。権力を示す装飾品としての見方が強まります。この時代は最も勾玉が作られた時代です。特に翡翠の勾玉が多く出土している時代でもあります。
近畿から中国関東に集中して分布しています。弥生後期になりますと、瑪瑙(メノウ)や水晶製の勾玉も見られるようになりました。島根県花仙山(かせんざん)はこの頃から良質な瑪瑙の産地だったのです。麓には玉作りを行う玉造部の集落が50ほどあったようです。
スサノオノミコトが玉造にてクシアカルタマノミコトに勾玉を献上したことが、日本書紀に記されています。それが後の三種の神器になったようなのです。玉造は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)発祥の地とも言われています
一説では瓊(たま、に)は赤色のことだと言われています。瑪瑙のことを指していれば神話の通りです。玉造部は各地に分布していたため玉造駅(大阪府大阪市天王寺区玉造元町および玉造本町)があります。島根県だけでなく大阪府や茨城県などの地名にもその名残を見ることができます。
ところが、飛鳥時代から奈良時代にかけて勾玉の価値は段々と薄れていっています。近畿ですら確認できなくなってきたのです。その後、すべての地域で勾玉が見られなくなってしまいます。

勾玉が廃れた

勾玉はどこへ消えたのでしょうか。寺院の土台に収められたり仏像を飾るために使われることはあったようですが、新しく作られていたというわけではなかったようです。
この頃は、遷都や大宝律令の制定などで日本が国家として徐々にまとまってきていた時代です。その過程で地方豪族は装身具を朝廷に返上しました。そして、646年には古墳造営副葬品が禁止され始めたのです。
冠位十二階(日本で603年に制定され、605年から648年まで行われた冠位:朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるもの)などの制度によって権力を象徴する装身具としての価値が失われたことなどの影響によって、徐々に勾玉は廃れていったようなのです。

勾玉の象徴とは

古代の人々は何を象徴して勾玉を形作っていたのでしょうか。諸説あります
一つは、獲物の牙で作った装飾品を模したという説があります。古代の人々には力を得るために体の一部を身につけるという呪術的な信仰がありました。狩ってきた動物の牙の骨をお守りにする風習があったようです。
牙の鋭いサメや熊などの強い動物で力を得ることを願っていました。またイノシシなどの多産の動物の牙を身につけることで子孫繁栄を祈っていました。この形を石で作り徐々に洗練されていったのが勾玉だというのです。
太陽と月の形を模したという説があります。勾玉の丸い頭の部分は太陽を表します。尾の部分は月を表しています。それらは、ちょうど月に太陽が重なった姿にも見えます。
太陽と月は古代の人々にとって農工や漁業は生活のために非常に重要なものでした。太陽や月の運行を観察することで日や時間、潮の満ち引きなどを測り暦の基礎を作っていたようなのです。
三種の神器を三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)とは『古事記』で黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命(イザナキ)が黄泉の汚れを落としたときに最後に生まれ落ちた三柱の神々のことです。 イザナキ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたことから、この名が生まれました。
また、三種の神器を三貴神(さんきしんとも呼ばれます)に見立てて八咫の鏡をアマテラスオオカミ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を須佐之男命、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を月読命(ツクヨミ)とする見解もあるようです

胎児の形を表現

縄文時代に限らず、医学が発達する以前は、出産によって命を落とす女性が多かったようです。遺跡からは大人の倍以上の乳幼児の墓も発見されている調査結果もあります。
意図的に壊された状態で土偶が出土していることは、一説では汚れを土偶に移し、その土偶を壊すことで厄払いし、安産祈願をしていたようです。その理由は、古代日本から、怨霊を信じていたからです。亡くなった人の遺骸、お骨などに霊的存在を感じるのは、日本人には多いのです。
胎児の形に魂が宿ると考えられていたようです。その形を模して勾玉を身につけることによって、魂の力を得ようとしていたという説もあります。

けつ状耳飾り

けつ状耳飾とは石器時代から縄文時代早期には存在したリング状の耳飾りです。それらは、各地の遺跡から出土しています。栃木県の根古屋遺跡(栃木県宇都宮市上欠町にある縄文時代前期の集落遺跡。別名聖山公園遺跡)では、出土した180体近くの人骨のうち耳飾りを付けていたのはたった2体でした。そのため、誰もが身につけていたわけではない貴重な装飾品のようです。
縄文時代にも身分の差が少なからずあったのかもしれません。この耳飾りは、耳たぶに穴を開け、リング の切れ目から差し込みます。ところが、加工しやすい柔らかい石でできているために丈夫ではありませんでした。
出土する耳飾りのほとんどは、半分に割れ、穴があけられているものが多く見受けられます。壊れた耳飾りに穴を開けて紐を通すことでつなぎ合わせたり首飾りとして再利用したりしていました。

マナの壺と勾玉

勾玉には、マナの壺伝説があります。マナの壺とは、旧約聖書モーセの時代に神聖な食物マナを入れた壺です。マナとはご飯の語源とされています。(マナ=マンマ=マンナ=ご飯=米粒)

米粒は、勾玉の形にとても似ています。米粒と勾玉は同一であり、マナの壺は、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」なのです。
「米粒(マナ)」は、「勾玉」と形が非常に似ています。「マナの壺」と関わりの深い「天真名井神社(あめのまないじんじゃ)」のご祭神は、「豊受大神(とようけのおおみかみ)」です。

「豊受大神」とは、「天照大神」に食事を与える神です。神聖な食物マナである米粒を与えると理解できます。

五穀豊穣、衣食住の守り神として崇められる豊受大神(とようけのおおみかみ)は、経済の権威を象徴するのも理にかなっています。


参考文献:ユーチューブ、

縄文時代まで遡る!?超古代日本から伝わる勾玉の謎

<https://www.youtube.com/watch?v=iBMCDk5aJmk>アクセス日:2021年3月1日


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