この記事の概要
人種差別による日本人皆殺しの元になった思想には、マニフェスト・デスティニーと呼ばれる領土の西方拡大を「神から与えられた明白な天命」として正当化した思想が盛んになったことが一つです。もう一つの黄禍論は、アジア系移民である中国人や日本人の増加やアジア諸国が増加してきたことに対して、白人社会や文明に対する脅威とみなしたことです。そこで、人種差別的な思想・議論が生まれました。
マニフェスト・デスティニー
日本は1919年パリ講和会議において、人種差別撤廃提案を提出しましたが、植民地政策を行なっていた白人諸国には受け入れられませんでした。
19世紀半ばにおいて、アメリカ合衆国では、領土の西方拡大を「神から与えられた明白な天命」として正当化した思想が盛んになっていました。これが標語にもなるほどでした。
この言葉の由来は、1845年にジャーナリストのジョン・オサリヴァンが雑誌の論文で用いたことで広く普及したのです。この思想の背景には、アメリカ人は、アメリカの民主主義や人種・制度の優越性を信じたのです。そして、西へ領土を広げることは避けられないことであり、正当な義務であると思い込んでいました。
この結果の影響力によって、メキシコ領だったテキサスに多くの米国民が入植し、1836年にテキサス共和国として独立。1845年にアメリカがこれを連邦へ併合したことが発端となり、アメリカとメキシコの戦争を引き起こす大きな原動力となりました
黄禍論
アメリカにおける黄禍論(エロー・ペリル)とは、19世紀中頃から20世紀にかけて、アジア系移民である中国人や日本人の増加やアジア諸国が増加してきたことに対して、白人社会や文明に対する脅威とみなしたのです。そこで、人種差別的な思想・議論が生まれました。
19世紀半ばのゴールドラッシュや大陸横断鉄道の建設などをきっかけに、多くの中国人がアメリカ西海岸へ渡りました。安価な労働力として貴重とされた一方で、生活習慣の違いや労働市場での競合から排斥運動が起き、1882年には中国人排斥法が制定されてしまいました。
1904年2月から1905年9月にかけて行われた日露戦争で、日本の勝利により、アジア人に対する軍事的・経済的脅威論(黄禍論)がアメリカで急速に高まりました。このことをきっかけに、西海岸を中心に日本人学校分離問題や土地所有を制限する法律(外国人土地法)が作られました。
1907年の日米紳士協定による移民制限を通過して、1924年には「帰化不能外国人」の入国を実質的に禁止する排日移民法が成立しました。そこで、アジア系移民に対する法的な締め出しが決定づけられたのです。
太平洋戦争が始まると、黄禍論の思い込みを持った人々は、日系アメリカ人の強制収容、立ち退き、拘留を正当化するようになりました。
この黄禍論は、現代への影響を与えています。近年の米中対立や、新型コロナウイルスの流行期にアジア系住民に対する偏見や人種差別的な犯罪が表面化した際、メディアや有識者の間では現代における「黄禍論」や反アジア的ヒステリーの再燃として注意が促されています。
フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)の時代
真珠湾攻撃の後、アメリカ本土に住む日系人たちを強制収容されましたが。これも「黄色人種である日本人は信用できない」という黄禍論的な人種偏見でした。
まとめ
米国はマニフェスト・デスティニーという大義名分のもとで太平洋へ進出し、アジアの中では特に日本と直面することになりました。その過程で、アジアの台頭を恐れる黄禍論が、米国内の世論や外交政策(移民排斥や対日警戒)に強い影響を与え、最終的な日米衝突へとつながる心理的・思想的な土壌となったのです。