この記事の概要
一人の命は聖地エルサレムよりも重要なのです。しかしながら、人間の命よりも土地の方が尊くなっているのが今のシオニズムあるいはクリスチャン・シオニズムです。なぜなのでしょうか。それは、神が決めたことだからです。神が決めたこの土地だからと言うことなのです。「エルサレムの土地は全部自分たちのものにしなければならない。そのためにどれだけの血が流されたとしても構わない」と。
エルサレム地域の虐殺の歴史
イスラエルにおけるエルサレムの地域はずっと有史以来、虐殺の問題を起こし続けています。十字軍の時もそうでした。エルサレムは永遠の都であるから奪還しなければならないと言うのです。
イスラム教という異教徒の力から、これを奪還しなければならないと言うことで約200年に渡って、ヨーロッパでは、十字軍が計7回から8回結成されました。これによって、相当の人命が失われ、多大な労力をかけたのもエルサレムの地でした。
今のハマスとイスラエルの戦争だけではなく、過去何度もパレスチナの地では、イスラエルと中東諸国を巡って、戦争が繰り返されてきたのです。
それもやっぱり、シオニズムであり、クリスチャン・シオニズムといった問題が背景にあります。ユダヤ人にとっても、福音派の人たちにとってもこのパレスチナの地というのは聖地なのです。「神が定めた聖地である」ということです。
聖地よりも思いの人命だ
しかしながら、その聖地である土地よりも重いのは人命です。誰もがそう思うでしょう。土地よりも人命の方が重いのです。ここは聖地だから生命より大事だと思うのは洗脳された信者すなわちシオニストたちです。
土地ももちろんあの大事です。特に農業中心だった時代はなおさら田畑が作られ、そこで食べ物が生産されました。土地がなければ、国力もなければ、生計も立てることができません。
私たちの人生において欠くべからざるものが土地だったということです。鎌倉武士は、土地を巡って「一所懸命」と言ってその場所を懸命に土地を守ることに命をかけたのです。
何故ならば、一族の生活がかかっていたからです。その場合の土地が必要なのは、人命を守るためです。人が生活し、生計を立てるために土地が必要なのです。いわゆる、作物を取ったりする場所が必要だからです。何のための土地かと言ったら、人間が生きていくため、生き抜くために、土地は大切なものでした。
あくまでも土地は手段であり、それは私たちが生きてくために必要なものです。ところが、聖地という考えが、その逆になっています。この「聖地」と言う発想は、聖地である土地が大事だから、そのためにどれだけの人の命が死んでもいいと言う捉え方です。
命より土地の方が尊いシオニズム
人間の命よりも土地の方が尊くなっているのが今のシオニズムあるいはクリスチャン・シオニズムです。なぜなのでしょうか。それは、神が決めたことだからです。神が決めたこの土地だからと言うことなのです。
「土地が尊い!」。そのためには「人命の血が流されてもいい」と言う発想です 。あれだけのパレステナ人が惨殺されているにもかかわらず、まだ戦争をやめません。
「エルサレムの土地は全部自分たちのものにしなければならない。そのためにどれだけの血が流されたとしても構わない」と。悪魔的です。しかもここにはこの同じ人命でも異教徒の命というのは、そんなに大事ではないと言うのです。
ユダヤ人は選ばれた民族、 異教は生かしておいてはいけないと言うのが 聖書の記述にもあります。彼らがそのような行動を取るのは、聖書 の記述にも無関係ではありません。
ユダヤ人にとって、一番大事なのは、イスラエルの神から与えられたカナンの地という聖地であって、それと比べたら異教徒の命は何人奪われようがどうでもいいのです。そのような宗教的な信念が背景にあります。
日本人を育んだ仏教的思想
「人間の命は尊い」と教えられるのが仏教の根本的な教義です 。それは「人身受け方難し今已(すで)に受く」とは仏教の本においては、最初 の1ページの巻頭に書かれてい有名な言葉です。
日本人を育んできた仏教の教えを一言で表すよう有名な言葉が、「人身受け方難し今已に受く」とは「よく生まれがたい人間によくぞ生まれたものぞ」という言葉が「人身受け方難し今已に受く」という言葉です。人間に生まれたということは掛け替えのないことです。 そして今こうして生きているということも尊い掛け替えのないことなのです。
人命は尊厳なのかと言うと、それは人間とは、「無上の宝をいただく器」だと言うことです。仏教では、水があっても、器がないとその水を持ち運ぶことできません。
ちょうど砂漠で旅をする時に、水筒が絶対に必要になります。その理由で、何よりも大事なのは水筒なのです。 水筒を忘れたら、砂漠では生き残れません。水筒を必ず用意します。なければ、砂漠で死んでしまいます。
水筒が大事なのは水筒が大事なのではなく、 その水筒の中に入ってる水が大事なのです。でも砂漠では水筒が無いと生きていけません。水は水筒がないと持ち運ぶことはできません。水筒は水を持ち運ぶ器だから水筒が何よりも砂漠では大事ということになるわけです。
人間の体は、無上の宝をいただく器、肉体であり人命なのです。その無上の宝を頂いた時が本当の幸せになった時であり、この身になるための人生だったのかという喜びが起きる時です。
「生まれ難い人間に生まれることができてよかった」と人生を送ることができるように助け合わなければならないのです。無上の宝を頂いてこの身になるための人生だったのかという幸せになった時に、人命の尊厳が鮮やかに知らされます。 この幸せをいただくための人命だったのかと、掛け替えのない命だったのか知らされます。
人命を失わせてでも土地が大事と言うのは本末転倒です。土地というのは、私たちが生計を立てるためにこの命を守るために大事なものであって土地のために、人命を失っていたら根本神の教えに逆らっているのです。
参考文献:ユーチューブ、なぜイスラエルはああなのか。そしてなぜアメリカは支援するのか【仏教からの視点】
URL<https://www.youtube.com/watch?v=K-vb3zKoBqs&t=1236s>アクセス日:2025年10月8日
まとめ
イスラエルにおけるエルサレムの地域はずっと有史以来、虐殺の問題を起こし続け、十字軍の時も、「エルサレムは永遠の都であるから奪還しなければならない」と言う理由だった。
あくまでも土地は手段であり、それは私たちが生きてくために必要なもの。ところが、聖地という考えが、その逆になっている。この「聖地」と言う発想は、聖地である土地が大事だから、そのためにどれだけの人の命が 死んでもいいと言う捉え方だ。
人間の命よりも土地の方が尊くなっているのが今のシオニズムあるいはクリスチャン・シオニズム。それは、神が決めたことだから。神が決めたこの土地だからと言う発想。
人間の体は、無上の宝をいただく器、肉体であり人命。その無上の宝を頂いた時が本当の幸せになった時であり、この身になるための人生だったのかという喜びが起きる時。