この記事の概要
お札の人物はフリーメイソンと関わりがあったと言われています。例えば、渋沢栄一はイギリスにも行き、ロスチャイルドの支配下にあったイングランド銀行や金の精錬所なども見学しています。フランスのロスチャイルド家の党首の傘下であるフリュリ・エラールという銀行家から銀行業と金融業を学びます。日本初の銀行である第一国立銀行を設立し、通貨を発行する権利である通貨発行権を持っていました。
紙幣に使われたデザイン
戦後1946年、新円切り替え時には、聖徳太子や二宮尊徳などが使われております。この時は紙幣のデザインは、GHQの許可が必要な時代でした。
この時の10円札の裏のデザインが、国会議事堂を四葉のように囲まれた形が十字に見え、周りに四点数散りばめられた数字が米と思わせ米国と読めると言われています。
これ調べると当時でもGHQの陰謀だと言うことで、国会の答弁にも上がった陰謀論です。近年、生まれた変な陰謀論ではないことが分かります。
結局陰謀論なのか本当にアメリカの支配下だということを マーキングしたのかの答えは分かりませんが結構変わった形のデザインなので非常に怪しいのです。
日本が終戦後、フリーメソンの力がより入り込んだと思わされるような 人物が肖像画として使われるよになりました。
板垣退助
戦後、最初に使われた人物が1948年に肖像画になった板垣退助です。ここから近代的な人物が肖像画に使われるように なりました。
板垣退助といえば土佐班出身です。土佐班はと言うと薩摩、長州と並んで幕末に倒幕を進めた班の1つです。
その倒幕に力を貸したのが武器証人の側面を持っていたグラバーというのは有名な話です。グラバーは、フリーメソンと関わりがあり本人もフリーメイソンだったかもしれないとまで言われ人物です。
つまりこれらの藩のバックには、フリーメイソンがいて武器を出したり倒幕を助けたということです。
その後、板垣退助は、明治政府の政争に破れて追いやられてしまいました。ところが、自身で設立した政党の党首として国民からの人気はありました。
初代総理大臣でもある伊藤博文は対抗勢力だったのですが、人気と発言力もあった板垣退助に対してポストとお金を用意して寝返らせ、ヨーロッパの政治を見てくるよう進言します。
この時にフランスの首相にもなったクレマンソというフリーメイソンの幹部とされる人物と板垣退助は会っています。
このクレマンソーは、総理大臣も経験した西園寺公望の親友で、伊藤博文と近しい仲でした。そこで、この繋がりで板垣退助は新たに、フリー メソンとの繋がりができたのです。
板垣退助は、グラバーやクレマンソーというフリーメイソンと関わりの深い人物との繋がりがあり、戦前戦後を通して国民の人気もあったために採用されたのではない でしょうか。
このように戦後に作られた最初 の肖像画からフリーメソンが関係している 人物が採用されているということです。
岩倉具視
1951年に発行された紙幣の肖像画に岩倉具視と高橋是清が採用されています。岩倉具視も新政府に入って岩倉施設団として欧米に行きました。
その中には薩長の木戸孝允、伊藤博文、大久保利通などがいまし。このように倒幕側のフリーメイソンと繋がりがある人物が近くにおりました。ちなみに岩倉使節団の中には海外留学をする人たちも一緒にいました。
その中に新紙幣となった津田梅子もおります。その岩倉具視にお金を出したのは、グラバーと言われており岩倉具視が、力を持っていたと分かる出来事としては、日本初の国葬を行っ たのが、岩倉具視だったというところからも見ることができます。
高橋是清
高橋是清は、総理大臣や大蔵大臣、日本銀行総裁などを務めた人物になります生まれは江戸ですが仙台藩の養子となって、1867年に藩命によって、アメリカに留学します。しかし騙されて奴隷契約をしてしまい奴隷としていくつかの家を点々とします。
なんとか領事立ち会いのもの話し合った結果、奴隷契約破棄が成立し、日本に帰国することができました。
武士の家系なのに奴隷経験がある人生って波乱万定で面白いですよね。そしてアメリカで得た知識と語学力により森有礼に進められて、文科省に入ります。
その森有礼とは、元薩摩藩主で、グラバーがヨーロッパへ密航させ、世界を見せることで、倒幕派になったとさ れる人物の1人です。
その後高橋是清は、第3代日銀総裁の川田小一郎に声をかけられ、日銀に入り、第7代日銀総裁になります。
日本銀行は、45%が民間からの出資でロスチャイルド家が所有していると言われています。日露戦争時には、高橋是清は、ロスチャイルド家から戦費を調達しています。
高橋是清は、フリー メイソン・ロスチャイルド家との繋がりがあると言われ、紙幣の肖像画に使われたと言うことが理解できます。
福沢諭吉
幕末に大分県で生まれた福沢諭吉は、勉強熱心でオランダ語、英語の勉強や科学実験まで行っていた様です。
後に蘭学塾として作ったのが今で言うところの慶應義塾です。福沢諭吉とフリーメイソンの直接的な繋がりは分かりませんでした。フリーメイソンと近しい 人物とは繋がりがあったり欧米には度々行っていたので、何か接点があったとも考えられています。
接点がないとしたら、福沢諭吉の思想がフリーメイソンと一致していることから称えられて紙幣に採用されたと考えられます。
実際にグラバーの支援を受けた 板垣体や森有礼伊藤博文などとはつながりがありました。また中央銀行の考え方を日本に伝えたのは、福沢諭吉だと言われています。
ロスチャイルド家の祖、マイヤー・アムシャル・ロートシルトは、このように述べています。「通貨発行権と管理権を私に与えよ。そうそうすれば誰がどんな法律を作ろうがどうでもいい」と。
思想的にも日本を西洋化するという部分や白人至上主義、女性解放思想などの考えを持っていました。
白人至上主義は、黄色人種は白人より劣っていると考えていたのです。日清戦争で台湾が日本に割譲された際は、「服従しない蛮人は殲滅せよ」ということを言ったとのことです。
このような思想がフリーメイソンの考えと一致したので紙幣に採用された可能性が高いということです。
新紙幣にもなった北里柴三郎のために伝染病研究所を設立したのが福沢諭吉です。福沢諭吉が作った慶應義塾大学の初代医学科課長にも北里柴三郎はなりました。
また新紙幣になった津田梅子の父と福沢諭吉は同じ施設団として、アメリカに行っています。このようにフリーメイソンと近しい人や新紙幣となった人物と繋がりがあったり、思想的にフリーメイソンに好まれるような考えを持っていたということです。
新渡戸稲造
新渡戸稲造は、国際連盟の事務次官を務め、教育者や農業の研究者でもあります。盛岡藩主の家に生まれ、西洋のものが家に多かったので西洋に憧れました。
そこで、キリスト教徒になって太平洋の架け足になりたいとアメリカに留学し、海外と日本を行き来していたのです。
その時に留学した先が、ジョンズ・ホプキンス大学です。ジョンズ・ホプキンス大学は、コロナの感染者数を集計しビル・ゲイツが出資ししていることから、ディープステート側の大学と言われる大学です。
新渡戸稲造は、日本に戻り、札幌農学校の教授になり多忙で病気になったことで、療養中に英語で日本のことを書いた著書が、武士道です。
武士道はアメリカで出版され、様々な言語に翻訳されて、世界に広がりました。この著書によって、新渡戸稲造の地名度が上がり、支配者の目に止まります。
普通の学校の先生でしたが、ここから知名度が広がっていきます。ある時、台湾総督府の民政長官となっていた同郷の後藤新平から招聘されて台湾総統府の技師になりました。
後藤新平は、日本の黒幕とも言われる政治家で、フリーメイソンだと言われる人物です。その理由で新渡戸稲造もフリーメイソンと関わりがあったということです。
総理大臣になった原敬も同郷でした。あの時代に総理大臣になれたのもフリーメイソンとの関係が深い人と仲間だったからだと考えられます。
また新渡戸稲造は、東京女子大学の学長をしたり、新紙幣になった津田梅子の津田塾の顧問も務めたりもしました。
国際連盟が設立された際の常任理時国は、日本を含めた4カ国しかなかったのですが、その日本の事務次官を務めたということで、かなり上の地位についていたのです。
新渡戸稲造は日本人で初めて支配者層に認められた国際的な官僚でした。著書の武士道は、日本では批判のの対象となることもあります。
君が代や古事記を英訳したバジル・ホール・チェンバレンという人物や皇室学者の津田左右吉(そうきち)などから武士道が誤った日本を海外に 広めていると内容を批判されたりいくつかの発言から右翼思想家からは被国民だと攻撃されています。
夏目漱石
夏目漱石は、明治末期から大正初期に活躍した近代日本文学の文豪の1人です。英語教師をしていて、文科省より英語教育法の研究のために英国留学を命じられました。
夏目漱石はフリーメイソンやフリーメソンと関係のある人とのつながりが見出せません。夏目漱石は、小説化であり、初めての文化人として肖像画 になっています。
映画 やゲームなどの娯楽は国民に勉強させず、政治に目を向けないようにするために広められたと言われています。フィクションの読み物である小説が、その役割をしていて、小説家である夏目漱石が採用されたのかもしれません。
野口英世
野口英世は、明治生まれです。福島県出身で上京して日本医科大学の全身の学校に入学し、医師になります。
その後、血清療法の開発などで世界的に名前が知られるようになりました。北里柴三郎が所長を務める伝染研究所に務め始めます。
この伝染研究所を作ったのは、福沢諭吉です。新紙幣になった北里柴三郎や福沢諭吉と関係があるということです。
そこに、アメリカから赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナーと言う人物を野口が案内します。
野口英世はこの人物に アメリカ留学ができるかを尋ねます。フレクスナーは、新渡戸稲造が留学したジョンズ・ホプキンス大学の教授でした。
フレックスナーは後に、ロックフェラー医学研究所が設立された時の初代所長であり、ロックフェラー医学研究所が設立されてから野口英世は渡米し、研究員になります。
ロックフェラー医学研究所は、石油王のジョン・D・ロックフェラーが、設立して今は ロックフェラー大学という名前になっています。
現在もロックフェラー家と密接に関わっており、2017年に亡くなったデイビッド・ロックフェラーも名誉総長という肩書きでした。野口英世とロックフェラーとの繋がりが見えます。現在ではロックフェラー大学には、野口英世の胸像もあります。
1901年、ロックフェラー研究所に行く前に、アメリカに滞在していた伊藤博文と会っているのです。
野口英世は、人体実験スキャンダルもあります。梅毒の抽出物を注射して実験していました。紙幣になるような方は悪い噂があります。
樋口一葉
樋口一葉は、1872年の東京生まれの小説家です。24歳で若くして亡くなっています。フリーメイソンとの関係も見ることはできませんでした。
樋口一葉の紙幣が発表された2000年前後は、もっと女性の社会進出を進めたかったということから123年ぶりに紙幣に女性を使ったということが考えられます。
男女平等と女性の社会進出を表に出すために採用され たと言う考えですが、新紙幣にも、女性として津田梅子が採用されています。
北里柴三郎
北里柴三郎は、日本近代医学の父や細菌学の父と呼ばれ、彼の功績はペスト菌の発見や破傷風の治療法を見つけたことです。
彼の経歴は、幕末に現在の熊本県に生まれ医学の道に進んでいます。1885年、ドイツの ベルリン大学に留学し最近学者のコッホに指示を仰いでいます。
その研究室ではフリーメイソンだと言われている後藤新平が一緒に働いていました。新渡戸稲造と同郷である日本の黒幕とも言われることがある政治家です。
そして北里柴三郎が帰国した後、福沢諭吉が北里柴三郎のために伝染病研究所設立し、初代所長となりました。ここでは野口英世が働きました。
その後福沢諭吉が設立した慶應義塾大学の初代医学科長に北里柴三郎はなりました。北里自体はフリーメイソンではないと言われておりますが、フリーメイソンやフリーメイソンに近い人物である後藤新平、福沢諭吉、野口英世という人物と密接に関わっています。
津田梅子
津田梅子は、津田塾大学の創設者です。父親が福沢諭吉と同じ施設団としてアメリカに行っているのです。
父親を通して福沢諭吉と関係がありました。津田梅子自身は、父親のコネがあったのか1971年にたった6歳で岩倉施設団の留学生としてアメリカに行ったことがあるのです。
グラバーにヨーロッパに密行させてもらい世界を見てきた森有礼が、アメリカへ留学した津田梅子の後見人で、駐アメリカ大使でした。
また津田梅子は帰国後、伊藤博文の奥さんの家庭教師となるなど伊藤との繋がりがあったのです。
その後2回のアメリカ留学に行き、モリスという人物の家でお世話になるのですが、そこを訪問した人物がフリーメソンと言われる後藤新平や野口英世、新渡戸稲造も訪問しています。
新渡戸稲造と野口英世は津田と同じ時期に留学生としてモリスにお世話になっていました。全員お札の人物になるとは非常に驚きです。フリーメイソンの息がかかった人物が津田梅子の周りにもいたと言うことです。
渋沢栄一
渋沢栄一は、日本資本主義の父と言われています。渋沢は、幕末には幕府に使える人物でした。幕府の施設団に加わり、フランス・パリ万博や各国を回ることになります。その時の通訳が歴史でよく出てくるシーボルトの長男です。
シーボルトはフリーメイソンのメンバーでした。その長男もオーストリアと日本の不平同条約に暗躍などしている人物でフリーメイソンだったと言われています。
そして渋沢栄一はイギリスにも行きました。ロスチャイルドの支配下にあったイングランド銀行や金の精錬所なども見学しています。
またフランスのロスチャイルド家の党首の傘下であるフリュリ・エラールという銀行家から渋沢は銀行業と金融業を学びます。
帰国後、渋沢は、日本初の銀行である第一国立銀行を設立します。この銀行は、通貨を発行する権利である通貨発行権を持っていました。
その後、1882年に中央銀行である日本銀行が設立され、通貨発行権は日本銀行に移ります。渋沢は他にも500もの会社を設立しています。
東京証券取引所を設立したり、森有礼と一橋大学の前身となる施設の設立や、伊藤博文と女性教育を進める施設を設立したりしています。
このようなフィリーメイソンと関わりのある人物と深く関わっています。1909年に、渋沢は渡米実業団を組織して、渡米しました。
ジョン・D・ロックフェラーと会って話をしたことがあります。ジョン・D・ロックフェラーは、懇談会などに決して顔を出さない人物でした。
70歳ながら渋沢栄一と深夜まで話し込んだと言いわれています。つまりロックフェラーが、ロスチャイルドのアメリカ代表で、渋沢栄一は日本の代表だったのではないかとも言われているのです。
その4年後に、アメリカの中央銀行であるFRBが設立されているので日本銀行設立が、アメリカの中央銀行設立の前の実験となっていたのではないかとも言われています。
このようにほとんどの肖像画の人物が フリーメイソンと関わりがありました。肖像画に選ばれた人同士も繋がりが多いことが分かったが分かります。
参考文献:ユーチューブ、【紙幣の闇】肖像画に採用される人物は全員フリーメイソンと関係があった!?【都市伝説】
URL<https://www.youtube.com/watch?v=-ji7xjeHdNo>アクセス日:2024年8月27日
まとめ
戦後1946年、新円切り替え時の紙幣のデザインは、GHQの許可が必要な時代だった。
板垣退助は、グラバーやクレマンソーというフリーメイソンと関わりの深い人物との繋がりがあり、戦前戦後を通して国民の人気もあったために採用されたのでは。
岩倉具視にお金を出したのは、グラバーと言われており、日本初の国葬を行っ たのが、岩倉具視だった。
日本銀行は、45%が民間からの出資でロスチャイルド家が所有していると言われ、日露戦争時には、高橋是清は、ロスチャイルド家から戦費を調達してる。
福沢諭吉は、思想的にも日本を西洋化するという部分や白人至上主義、女性解放思想などの考えを持っていた。白人至上主義は、黄色人種は白人より劣っていると考えで、「服従しない蛮人は殲滅せよ」ということを言った。このような思想がフリーメイソンの考えと一致した。
新渡戸稲造は、日本の黒幕とも言われる政治家で、フリーメイソンだと言われる後藤新平と関わりがあった。
野口英世とロックフェラーとの繋がりがあり、現在ではロックフェラー大学には、野口英世の胸像もあります。
北里自体はフリーメイソンではないと言われており、フリーメイソンやフリーメイソンに近い人物である後藤新平、福沢諭吉、野口英世という人物と密接に関わっていた。
渋沢栄一はイギリスにも行き、ロスチャイルドの支配下にあったイングランド銀行や金の精錬所なども見学している。フランスのロスチャイルド家の党首の傘下であるフリュリ・エラールという銀行家から銀行業と金融業を学び、日本初の銀行である第一国立銀行を設立し、通貨を発行する権利である通貨発行権を持っていた。